数を知るということとシンデレラストーリーについて

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こんにちは。

昨日はディズニー映画『ムーラン』を観ました。

僕は一度「全部のディズニー映画を観よう!」と思い立って、実際にほとんどのディズニー映画を観たのですが(何個かは観てない)、一気にそれを敢行してしまった為に、内容を覚えていない作品が多かったのです。

『ムーラン』もその内の1つの作品であり、わりと楽しんだことだけは覚えていたのですが、内容をすっかり忘れてしまっていたのでした。

 

面白いものですよね、楽しめたはずなのに覚えていないなんて。

いや面白くはないか。

 

なんにせよ、覚えていないのでは観た意味がありません。

観たという事実だけはあっても、どんな映画?と仮に誰かに聞かれたときに答えられないようでは意味がないと思うのです。

 

本とかも一緒だと思うんです。

読んだ本の数だけ多くて内容は全然覚えていない、みたいな人って少なくないと思うのですが、それじゃあ勉強という観点から見て意味がない。

 

なるだけ得たものは自分の血肉にしたい。

僕達人間、いや、生き物としての時間は有限ですから、なるだけいろいろな物事を吸収したいと考え、慌ててたくさんのことを取り入れようとしてしまいます。

でも取り入れることだけを考えていると、ザルで水をすくうように、得たものはすり抜けてしまう。

確かにすくったはずなのだが、はて、あれはどうなったっけかな?ってな具合なもんです。

 

だから、有限の中でも慌てず、ゆっくりとまずは得たものを咀嚼する必要があると思うんです。

何度も反芻して、脳に刷り込む。

その刷り込み作業が終わる前に次のものを取り入れようとすると、すり抜けてしまう。

 

まずは落ち着かないといけませんね。

 

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と言ってる僕自身が、『ムーラン』の内容を忘れてしまっていたのは、先にも書いたとおりディズニーを一気観して一つひとつをおざなりにしてしまったからなんですが、別の言い方をすると僕が若かったからです(笑)。

と言っても数年前なんですが、若さゆえの愚行です。

とにかく数を観てたくさん知ってる体を取ろうとしてしまったのです。

 

そしてこう言いたかったのです。

「ディズニー?ああ、全部観たよ」

「え?ポカホンタス?ああ観た観た。え?ジャングル・ブック?もちろん観たよ」

「あれ知ってる?コルドロン。え?知らないの?まあかなりマイナーだからね~(笑)」

 

なるほど、確かにディズニーについて詳しそうだ。

でも実際は、その内容をほとんど覚えていないのである。

にわかもいいとこである。

 

これはディズニーに限った話ではなく、映画好きを広く公言していた頃なんかは、とにかくたくさんの映画を観て、たくさんの知識を持ってる状態を作ろうとしていた気概がありました。

あれも知ってるし、これも知っているんだぞ、と。

でもその中で観てきた映画というのは、本当に全然内容を覚えていないという作品が少なくなりません。

もちろん全部忘れてるわけではなくて、ちゃんと心に残った作品もありますが、そうして観た映画というのはあまり思い出になっていないのです。

 

そのことに気付いたからなのか、それとも価値観が変わったからなのか、それとも単純に映画熱が冷めたからなのか、実際のところはわかりませんが、昔ほど「なんでも観てやろう」みたいな気概はなくなりました。

それこそ1日1本映画を観よう!と決めてそれを数週間続けたこともあったりしたのですが、今はあんまりそういう気持ちがありません。

まあ時間が無限にあるのならば、毎日映画観て、毎日映画のことを考えたいとは思いますが、そういうわけにもいかないので、1本1本を大事にしようという気持ちの方が今は強いです。

大事に考えて、ちゃんと思い出にする。

 

そういう映画を少しずつでいいから増やしたいですね。

 

だから、昨日は『ムーラン』を観ましたが、先日は『シンデレラ』を観ました。

『シンデレラ』もまた内容を忘れた作品だったのです。

いや、もちろんビビディバビディブゥでガラスの靴がシンデレラの足にすっぽり云々無条件ハッピー!な内容だということはわかっていますが、ディズニー映画としてのそのお話の運びがどうだったかしら?ということで、忘れてしまったのでした。

この2本ですらちょっと間隔が短かったので、忘れないように脳内反復しています。

 

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もしかしたら

「覚えてるからなんなの?」

という人もいるかもしれません。

 

それに関しては、それもまた脳内の材料になりうるからです。

いつか何かを考えるとき、つまり料理するときに、一体どんな材料を使うかというのは、その時になってみないとわかりません。

だからいろいろな場面でいろいろなことを考えられるように、自分の中で保存できる材料は保存しておくのです。

かつてスティーブ・ジョブズ氏が「点と点がいつか線になる」と言っていましたが、まさにその点を増やす作業ですね。

 

つまり、何かの拍子に『ムーラン』を引き合いに出して何かを喋るかもしれない。

引き合いに出さずとも、彼女の生き方を思い出して何かが影響するかもしれない。

『シンデレラ』も同様。

 

『シンデレラ』は特に

「あれはシンデレラが美人だから成り立ってるだけで、教訓は何もない」

みたいなことを言われがちですが、僕はそうは思いません。

「美人だから成り立つ」がすでに教訓であり、良くも悪くも人は見た目で判断するということをよく物語っています。

人間の五感の中で、特に視覚で得る情報に人は影響を受けると言いますが、じゃあ少なくとも見た目に関して、自分ができうる限りの努力はするべきではあるまいか、と。

 

確かにシンデレラは恵まれています。

だって魔法使いが出てきて魔法を掛けてくれたんですから。

でも仮にあれがなくて、継母達の意地悪がなかったとしたら、彼女は自分でドレスを作ってパーティに参加してたはずです。

彼女は意地悪にもめげず、自分でドレスを作って(動物達に手伝ってもらってはいますが)、一生懸命努力して、いつか幸せになるんだという気概を持って生きています。

でもついにはドレスを無残に破かれて、挫けてしまう。

そんなかわいそうな彼女に、少しばかりの救いの手があっても罰は当たらぬでしょう。

 

現実はもっと残酷である、という意見はまあごもっともでしょうけれど、少なくとも言えるのは、シンデレラは何もしていないのに美人なだけで幸せになれた、という解釈に落ち着くのは違うのではないか、と。

いつどんな形で報われるかはわからないけれど、そして報われるのかすらわからないけれど、何かしらのチャンスが訪れたときに、そのチャンスを掴むための努力は常にするべきでしょう。

仮にシンデレラが最初から意地悪に腐ってて、テキトーに生きてたとしたら、そもそもとして彼女の前に魔法使いは現れなかったのではないでしょうか。

仮に現れたとしても、継母の取り巻きのようなどうしようもない性格だったとしたら、王子とは結局上手くいかないでしょう。

もちろん献身的である実際のシンデレラがあのあとちゃんと幸せになれたかどうかというのには疑問が残りますが、とにもかくにも、自分自身はやれるだけのことをやっておくべきであろうということに疑いはない、というのが僕の気持ちです。

 

いつ自分にとってのパーティが開かれるかはわからないのである。

何が魔法使い的な立ち位置になるかはわからないのである。

例えばバンドマンが、いつ敏腕プロデューサーにめぐり合えるかはわからないのである。

めぐり合ってから歌の練習をしよう!ではあまりにも遅いのである。

そもそも歌の下手なやつにプロデューサーは食い付かない。

食い付いてもらうためにいつでも準備オッケーな状態を作っておくことが、シンデレラストーリーを実現させるための前提条件になるのだと思います。

 

 

あら?

また長くなってしまいました。

 

今日はこの辺で。

 

ではでは。

 

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