「知識」が生み出す人生のコントラスト

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前回の記事を読み返してみて、最後の方でなんだかよくわからないままいきなり「知識」がどうのこうのという話になって自分でもびっくりしましたが、せっかくなのでもう一つ「知識」というものについて思ってることを書こうと思います。

 

まず上の画像を見ていただきたいのですが、これはお察しの通り、男性と女性の色の認識の違いを表したものです。

女性は色を見分けるのが得意で、男性は苦手である、だから女性はお花や花火を見て綺麗と言うし、男性はあまり興味を抱かない。

そんなようなことを誰でも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

で、僕はこれが「知識も同じなんじゃないか」と思っています。

 

例えば「虹」と言えば日本では七色であると認知されていますが、アメリカでは6色と言われています。

ドイツでは5色だし、南アジアのバイガ族に至っては2色と言われているそうです。

これはつまり「同じように見えてるはずのものに対して認識が違う」ということを表していると思うのですが、どうしてそうなるのかと言えば「どういう風に教わったか」という違いによるところかと思います。

7色と言われればそう見えなくもないし、2色と言われればそう見えなくもない。

要するに視覚的な性能の違いによるものではなく、「知識」による補正で色を見ていると言えると思うのです。

 

人気番組『芸能人格付けチェック』を見ている人ならよくわかると思いますが、素人では到底わからないような、一流のものとそうでないものの違いを、GACKTをはじめとした一流と言われる人々はさも当然のように正解の部屋に入っていきます。

これも一流のものとそうではないものをどれだけ嗜んでいるか、という知識による判断かと思います。

「経験」と言ってもいいでしょう。

 

例えば僕達一般人は、ピアノの音の良し悪しの違いを聞き分けられません。

でも子供の頃からピアノを弾いていたり、好んでピアノの演奏曲を聴いてる人などであれば、明確にその音の違いを聞き分けられる。

もちろん中には素人でもはっきりと音の違いを感じる人もいると思いますが、それは生まれ持った耳の良さがあるのかなと思います。

 

僕の経験で言えば、初めてエレキギターを買って弾いた時、リアとフロントの音の違いを全く感じられませんでした。

でもその二つの音の性質を知って、よくよく聞くと確かに違うことに気付き、今ではちゃんとその音の違いを聞き分けられるようになりました。

多分同じような経験をした人って結構多いと思います。

 

飲料水で言えば、コーラなんかもコカコーラとペプシコーラのツートップがいるわけですが、気にせず飲んだらそんなに味の違いなんてわからないと思います。

でも「コカはこんな味」「ペプシはこんな味」ということを意識して飲んでいると、味の違いがわかってきます(ちなみに僕はコカ派です)。

 

コーヒーもそうだし、水にしたってそう。

 

こういう味の違いや音の違いを認識するためには、先にも書きましたがある程度「経験」が必要だし、それに伴う身体的な性能の向上を図ることも必要でしょうが、その土台にあるのは他でもない「知識」ではあるまいか、と思うのです。

 

あるいは感情なんかもそう。

「喜怒哀楽」なんて言うわけですが、ざっくり分けたら確かにその4種類かもしれないけれど、細かく見たらもっと複雑ですよね。

そしてそれを表現するためには「語彙」という知識も必要になります。

喜怒哀楽のどれもを「やばい」と片付けることは確かに可能だけれども、それは最初の画像で言うところの、色の全部に「やばい」が含まれていることになります。

便利な言葉だけれど、そこに深みはないよね。

 

複雑な感情を適切に伝えるのはどれだけ語彙力があったとしても難しいことだけれど、言葉を知っていれば知っているほどに、色の見分け方がたくさんあるように、感情の伝え方にも多様性が出るのかなと思います。

そしてそれはそのまま人間的な魅力になるのかな、なんて思ったりもします。

 

さて、そうすると全てのことに同じことが言えそうです。

一口に「日本」と言うことは簡単だけれど、日本には47もの都道府県があります。

その中にも様々な市町村があって、団地がある。

そしてそれだけいろいろな人がいて、いろいろな言葉がある。

僕は宮城県民ですから、東北辺りの町並みはある程度想像がつきますし、たまに東京に行ったりもするので東京の雰囲気もなんとなーーーくわかっているつもりです。

でも南の方になると人生で一度も行ったことがないものですから、どんな風な景色が広がっていて、どんな風な人々が暮らしているのかなんて想像すらできません。

ともすると、日本中を見て回ったことがある人にとっての「日本」と、東北辺りでうろうろしている僕にとっての「日本」は、当然認識が違うことになります。

 

それが世界にまで目を向けたらどうでしょう。

まさに果てがない。

 

それを歴史で考えてみたらどうでしょう。

まさに底がない。

 

エンタメにしてもそう。

映画をどれだけ知っているかによって映画の観方は変わるし、映画の監督さんや俳優さんのことをどれだけ知ってるかによっても観方は変わります。

 

音楽も、ただ音楽を聴いて楽しむのももちろんありだけれども、例えば作曲家の人生を知った上で聴くクラシック音楽は、知る前とではまた別物になると思います。

バンドも同じで、そのバンドのそのアルバムがどういった背景で生まれたのか、あるいはその曲がどんな思いで作られたのかを知っているのと知らないのとでは、その受け取り方が変わります。

 

そう考えると、あれもこれも全部「知識」が絡んでるんだなーと。

 

何も知識が全てだとは言わないし、いわゆる「感受性」なるものも等しく大事だけれども、そうやって知識を追っていけば、今までも楽しんでいたものがこれからもっともっと楽しめるかもしれないということを考えると、まだまだ人生は楽しくなりそうです。

今あるそれは、ただそこにあるだけなのだから、それを良いものであるか悪いものであるかを認識するのは他ならぬ自分自身。

その自分自身が変われば当然その評価も変わる。

 

美味しいと思ってたものが、美味しくなくなるかもしれない。

でも美味しくないと思ってたものが、美味しいと思えるかもしれない。

 

面白いと思っていたものが、面白くなくなるかもしれない。

でも面白くないと思っていたものが、面白いと思えるかもしれない。

 

そういった意味では、一生人生が完結することってないんでしょうね。

いつまでも道中にあって、最後の最後まで「あーもうちょっと生きたかったな」と思いながら果てるのかな。

 

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