僕は映画に「恋」してたい
こんばんは。
昨日の話を踏まえた上で、少し「愛」と「恋」について書こうと思います。
「うわー愛と恋とか恥ずかしいわー(笑)」
と思う人もいるかもしれませんが、ここで言う愛と恋は「恋愛」に限定したものではなく、広く「好きなもの」という定義で考えていこうと思います。
僕は最近映画の情報をシャットアウトしてる、という話は耳にタコができてると思うのでここでは言及しませんが、シャットアウトする上で懸念もあるのです。
どんな懸念かというと、昨日も書いたような
「え?映画好きとか言ってるクセしてこの映画のこと知らないの?www」
という風に思われるかもしれないなーという点です。
気持ちとしては、これもまた昨日書いたけど「うるせー」というのが本音です。
好きにもいろいろあるんだよ、って。
でもそれについてももう少し考えてみてたんですけど、僕は多分映画に対して「恋」してたいんだろうなーと思ったんですよね。
というのも、全部を知りたいわけじゃない。
知らなくてもいいと判断した情報は極力得ないように努めて、僕にとっての映画体験は「映画の世界に入り込む」というものであってほしいのです。
没入したい。
夢物語であってほしい。
でも映画を「愛」してる人って、なんでも情報を得ると思います。
裏話とかも好きでしょうし、俳優さんの人柄情報なんかも好きでしょう。
映画によっては「この監督さんだからこそ、この映画の意味がある」みたいな映画もあるので、本当の意味で考察したいならそういう監督さんの人物像みたいなものも知っておくことが望ましい。
そうやって余すことなく「映画」というジャンルの知識を網羅して、できる限り間違いのないように解釈したい人達が、映画を「愛」してる人のように思います。
違ってたらごめんなさい。
僕もどちらかというとその気質を元々持っていて、映画の製作中の写真とか映像を見るのは今でも本当は大好きなんですけれど、そういった意味では愛したいんですけど、あるとき気付いてしまったのです。
「映画の製作中の写真・映像を観ると映画に没入できなくなる」って。
ここ最近でそれを一番感じたのは、ご存知『1917 命をかけた伝令』のクライマックスシーンです。
そのとき僕はまだTwitterをやっていたわけですが、そのTwitter上でそのクライマックスシーンがどんな風に撮られたか、みたいな動画が上がっていたのです。
それを僕はうっかり見てしまった。
そのときは「へぇ今こんな映画撮られてるんだ」くらいにしか思っていなかったんだけれど、いざその映画を観てクライマックスシーンになった瞬間、そのTwitterで見た製作映像が脳裏に過ぎり、一瞬で現実に引き戻されたのでした。
特にこの『1917 命をかけた伝令』はワンカット(風)で、いかに鑑賞者を没入させるか、みたいなことが練り込まれてる印象があり、実際僕もそれまでものすごく入り込んでいたんですけれど、まさかのクライマックスで冷静になるという、文字通りの「最悪」でした。
少なくともああいうのは、映画を観終わった後に見るべきものだと思うんだけれど、最近の映画予告はそういうのも流す傾向にあるよね。
とにかく、そういうような体験がありまして、僕は映画を「愛」さない方がいいんだろうなーと思ったのです。
もちろんそちら側の人がいることは重々承知だし、僕のこのスタイルを聞いて「アホか」という人もいるでしょう。
でもそう言われましても、僕はきっと映画にずっと「恋」してたいんだと思います。
どうやって製作されたかとか、そういうような情報は大好きだけれど、僕にとってあまりにも現実的過ぎるので、それを知ったらもう恋じゃなくなっちゃう。
ジョーズも詳しく知っちゃうと、もうロボットに見えちゃう。
でもその撮影中の写真とかを見なければ、ジョーズはずっと本物のサメと思えるような気がするのです。
ターミネーター2のT-1000の被弾した穴も、飾りを体に付けてるだけと知ってしまってからは、もうそれにしか見えない。
シュワちゃんの片腕がなくなってからのシーンも、服の中に忍ばせてると知ってしまうとそうとしか見えない。
楽しい、けど寂しい。
そういったものも全部ひっくるめて、「でも俺は映画が好きなんだ!」という人は、映画を愛してるのだと思います。
一方僕は、「うーん、ぶっちゃけこれは知りたくなかった!」と思うことが多いから、映画を愛せない。
僕は愛したいんじゃなくて、恋してたい。
舞台裏なんか知らないで、ずっと映画に夢を見てたい。
そんな風に思う自分がいるのでした。
ちなみにこれはあくまでも「映画」の話であり、他意はない。
完