はじめの一歩を踏み出した分だけ広がる世界

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今日は一人でカラオケに行ってきました。

僕は大変なコミュ障と言いますか、一人ではなんにもできない子で、一人でカラオケなんてもってのほかだったのですが、少しだけ大人になって今に至ります。

 

初めて一人で行ったのはいつだったか、物凄く緊張したことを覚えています。

どんな風に思われるだろうか、一人でなんて淋しいやつに思われるだろうか、などなどと心配しながらも、でも結構最近そういう人が多いって言うしなーと言い聞かせて行ったように記憶しています。

いざ行ってみると、当たり前ではありますが、店員さんは普通によくある光景として接客してくれて、僕の心配は杞憂に終わりました。

それからはしょっちゅう行くようになりましたね。

 

何事もはじめの一歩が重たいものかと思います。

一歩を踏み出さなければ見えないものを、一生懸命想像して、一切の不安もない状態にしようと思うのだけれど、そんなことはありえないわけで。

いろいろなことを想像しながら、ビクビクしながらも思い切って一歩を踏み出さなければ見えない景色というものがあって、でもその一歩さえ踏み出してしまえば二歩目三歩目というのは重たくない。

 

僕も何度もこのブログを書かなくなっていますが、一回書かなくなると、リスタートの一歩目が滅茶苦茶重たくなるのです。

でもその一歩目となる一記事を思い切って書くと、ああこんなもんで書けるのか、と気が楽になって、二記事三記事と続々と書けるようになるのでした。

まあ僕の場合は「何故書かなくなるのか」というところに問題があるわけですが(苦笑)、それについてはとりあえず今は保留にしておきます。

 

映画館とかも一人で行けなかったし、飲食店も一人では入りたくない。

なんなら飲食店に限っては、今でも少しだけ抵抗感があります。

昔ふと食べたくなったラーメン屋さんがあって、いざ行ってみたら車が一台も止まってなくて、お店の周りをグルッと回って帰ってきたことがありました(爆)。

店内に僕一人という状況は今でも耐えられない。

映画館のシアターに一人は、スタッフもそこにはいないので、完全なる僕一人という状況なので大丈夫ですけれどね。

 

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なんにせよ、はじめの一歩が重い中、どれだけその一歩を踏み出してきたのかによって、できることの量というのには差がつくのかもしれませんね。

挑戦することを避けては日常は広がらないわけですが、挑戦を繰り返して日常が広がるのなら、t挑戦した分だけ自分の扱える領域はそれだけ広いということになります。

ともするならば、思い切って踏み出したい。

あんなことやこんなこともしたいし、あんなことやこんなことも知りたい。

 

それはもしかしたら、地図がおおむね完成した現代において昔のような冒険はできないわけですが、個人においての知的な冒険はいつまでもどこまでもできるのかもしれませんね。

いつまでもどこまでも縦横無尽に広がっていて、一生その地図は完成しない。

知的な探求は一生の遊びなのかもしれない。

 

なるほど。

 

本読も。

 

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