『君たちはどう生きるか』を読んで学んだこと(意識高め)
2020/11/01
ぼくは自己啓発的な本が嫌いではありません。
実際に意識が高くあるかというのには疑問があるけれど、意識を高く持とうという気持ちはあるので、その時点でいくらか意識が高いと言えるのかもしれません。
映画にも漫画にも、何か感銘を受けることがあったらば、積極的に学びにしたい。
さあ「学び」なんて言葉を使った日には
「どんだけ意識高いのwww」
と揶揄されてしまうだろうけれど、「学び」に対して「学び」以外の言葉が思い付かないので、今後も「学び」には「学び」という言葉を用いていこうと思います。
さて、そんな学びたい盛りなゆきちさんでありますが、本屋に行くとこんな本が目に付きました。
『君たちはどう生きるか』
なんて意識の高そうなタイトルなんだ!と思う人もいると思いますが、この本、結構流行ってるみたいで、帯には「120万部突破!」とありました(画像は自動で更新されます)。
ともすると、120万人とは言わずとも、それに近い数の人がこの本を手に取ったということになります。
であるならば、120万人近くの人は、ぼくと同じような意識の高い人と言えるのかもしれませんね。
しかしながら、見かけたその日は手に取らず、見送ることにしました。
深い理由はないけれど、強いて言うならば、ほいそれと無闇に本を買うほど本好きというわけでもない、ということでしょうか。
前よりずっと読むようになったけれど、まだちょっと渋る。
「思い立ったが吉日」なのはわかるけど、やっぱり渋る。
そんな渋りたがり盛りなゆきちですが、ある日実家に行くと、なんとこの本が置いてあったのです。
そう、父が買っていたのでした。
すぐそこに、120万人中の1人がいたのでした。
そして父は、ぼく達三兄弟にぜひ読んでほしいと思い買ったのだそうな。
これは願ったり叶ったり。
渋っていた本が期せずして手に入る(どっち
これはきっと神様が与えて下さった運命の本なのでしょう(鼻ほじほじ)。
というのは冗談で、まあそこまで信じるものがあるわけではありませんが、これも何かの縁だとは思うので、もちろん父の願いどおり読んでみることにしたのでした。
そして何を学んだのか。
忘れないように、ほら、アウトプットしないと(意識高っ
学んだこと1 世界は自分中心ではない
世界は自分中心ではない、だなんて、今更過ぎてなんの学びにもならないよ!という人は多いと思うけれど、言葉や知識として理解しているのと、心の底から体感として理解しているのとでは、理解の意味が違うでしょう。
この『君たちはどう生きるか』でもたとえとして出てきますが、自分中心で世界を見ている人は天動的な考え方です。
天動的とはつまり、地球があって、天が動いている。
自分がいて、そこを中心に世界が回っている。
自分の思い通りにならないとすぐに不機嫌になる人がいると思いますが、それは酷く天動的ですね。
反対に地動的ではどうか。
宇宙があって、地球がその中で動いている。
世界があって、自分がその中で生きている。
そうやって俯瞰して考えてみるとどうだろう、この広い地球上にちっぽけな一人の人間として生きている自分が、世界の中心であるはずがない。
わかっちゃいるけれど、本当にわかっているのだろうか。
そんなことを改めて考えさせられたのでした。
宇宙は広いのです。
とは映画『アルマゲドン』の劇中のセリフですが、ぼくはその広い宇宙の中の地球の中のアジアの中の日本の中の東北の中の宮城県の中の郡の中でしか生きたことがなく、せいぜい想像できるのは近くの仙台市内で生活している人のことくらいです。
とはいえ、仙台の街中で働いたこともありませんから、街中で働く人が普段どんな風に生活しているのかもわかりません。
かと言って、農家の人の生活もわかりませんし、県外になるともっとわかりません。
東京もわかりませんし、北海道もわからないし、沖縄もわかりません。
お国が違えばより一層わからないわけであり、ともすると、ぼくなんかなんにもわからないのです。
近くだとしても、家族のことも友人のことも恋人のこともわからないことだらけです。
そして、相手からもぼくのことなんかわからない(このこともゆめゆめ忘れてはいけない)。
そんなわからない間柄同士が、大きな大きな一塊となって、世界はうねりながら日々を過ごしていく。
しかし、ちっぽけでありながら、歴としたその一員でもある。
そんな中で、さあぼく達はどう生きようか。
っていう話ですな。
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学んだこと2 体験に勝る学びはない
これは、映画『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』でも語られていたことで、10年近く前にその映画を観たぼくは豪く感銘を受けたのでしたが、この本を読んで改めて考えさせられたのでした。
例えば、読書が好きで、「こういう境遇の人はこういう感情になる」とか「こういう性格になる」とか。
恋愛物が好きで、「片思いというのはこういう心境になる」もので「両思いになればどうやらハッピーらしい」とか。
「親類が亡くなった人の気持ちというのはこういう感情」で、「その後これこれこういう風になる傾向にある」とか。
とにかくいろいろな誰かの経験談があって、それをたくさん聞くと、確かに知識としては何でも知っていることになる。
知った気になる。
けれども、それは知識の域を出ない。
それを本当に体験した人の気持ちを真に理解することは絶対にできないのです。
片思いのドキドキは、片思いをした人にしかわからない。
親しい人が亡くなった悲しみは、失った人にしかわからない。
この世のものとは思えないほどの絶景の神々しさは、その地に行き、自分の五感で感じた人にしか絶対にわからないのです。
旅行する人を揶揄する言葉で
「旅行なんて写真が本当かどうか確かめに行くだけ」
というのを聞いたことがありますが、その地に行くことの意味をなんにもわかっていない人の言葉です。
言葉で聞いたり、写真で見たり、映像で見たりしたことがあり、それを上手く言葉で説明ができたとしても、それは決して心からの言葉にはならない。
だからぼく達は経験しなければなりません。
たくさんのことを経験して、たくさんのことを感じて、たくさんの気持ちを知っている。
そうすると、自分のあるべき姿というのも自ずと見えてくるし、相手に対してどう接すればいいかということも考えるようになるでしょう。
『サイダーハウス・ルール』という映画はそんなようなことを描いたものでしたが、長くなるのでその話はまたどこかで。
机上の空論とはよく言ったもので、事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!ということですね。
だから、できるだけ密な経験をたくさんしておくこと。
そうすると本当の意味での理解の幅が広がります。
学んだこと3 ぼく達人間が学ぶ意義
先にも例えたことですが、ぼく達にとって地動説というのは当たり前だけれど、それが当たり前ではなかった頃がある、というのは言うまでもないことでしょう。
つまり、天が動いているという考え方が当たり前だった頃があり、けれど、それにコペルニクスが異を唱え、天が動いてるんじゃない!地球が動いているんだ!というのが次の当たり前になりました。
そんな風に、いろいろな研究があって、あるいはひらめきがあって、たくさんのことが考えられて出来上がった様々な当たり前、常識の中でぼく達は生きています。
繰り返しに為りますが、でもそれらが当たり前ではなかった頃がある。
たくさんの人がたくさん考えて、たくさん見付けて、たくさん証明して、たくさんの当たり前ができました。
ぼく達はややもすると、その恩恵を忘れがちです。
いろいろな戦争が世界中であったわけだけれど、(誤解を恐れず言うと)ずいぶん今日が平和になったのは、過去の出来事を踏まえた上で
「戦争は良くないよね」
という価値観が広まったからでしょう。
その経験を忘れてしまっては、ぼく達人間はまた大きな戦争をしてしまう危険性があります。
だから、戦争に限った話ではないけれど、同じ過ちを犯さないようにぼく達は過去のことを勉強しなければなりません。
あるいは、今なおある謎を、過去の人が解明できなかった謎を、過去の研究を踏まえた上で更に深めるために、あるいは、今ある便利な物を、より良く発展させるために。
今ある当たり前が、どうして当たり前である必要があったのか。
それは歴史を振り返ってみなければわかりません。
「なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、決してフェンスをとりはずしてはならない」
とはイギリスの批評家チェスタートンさんの言葉ですが、勉学とはつまり、歴史を振り返ることです。
そこにある何かには何かしらの理由があるものであって、そのことを忘れてしまっては同じ過ちを繰り返しかねない。
先の
「世界の中でどう生きるか」
ということを横として見るならば、
「歴史の中でどう生きるか」
ということは縦で見ることができます。
ぼく達はこの21世紀の地球でどう生きるのか。
この四次元的空間の中でどう生きるのか。
それは過去を踏まえた上で見えてくる未来を考えて、自分で考えて生きていかなければなりません。
だからぼく達は学ぶのですね。
さもないと、モンブラン・ノーランドに怒られてしまいます。
神を信じているだけではダメなのです。
偉大な進歩を踏み付けてはいけないのです。
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まとめ
要約すると、
「精一杯生きんさい」
ということですね。
世界の中の自分の立ち位置を知って、その上でいろいろなことを経験し、いろいろなことを勉強し、自分を高めていく。
その高めていく中で、じゃあ世界の中でどう生きるのか、ぼく(たち)はどう生きるか。
君たちはどう生きるか。
実に意識の高い本でした。
完