心はまるで天気のように
2020/05/19
カメラを毎日持ち歩いて、とりあえず撮りやすいものと言ったら、やっぱりお空ですよね。
一昔前は自転車で移動してましたから、素敵な空が広がろうものならば、携帯電話パッと出してパシャパシャ撮ってたものです。
場合によっては大型スーパーの屋上駐車場にわざわざ行ったり、軽い山に登って撮ってたくらいアクティブでした。
それが車移動になると、いろいろと億劫になります。
素敵な空が広がっていようが、どこかに向かって車を止めて、車から降りて、カメラを構えて空を撮ろうとまではなかなか思わなくなってしまう。
冷静に考えると何も面倒臭いことはないし、なんなら自転車で移動してた頃の方が大変労力が掛かっていたと思うのだけれど、大人になるってこういうことなのかとネガティブな面では思います。
カメラにしてみたって、明らかに自転車移動の頃の方が邪魔だったろうに、当時は毎日持ち歩きながら、ここ最近までは毎日持とうなどとは思わなかったわけです。
物理的なストレスも、実際に掛かる労力としても、昔より今の方が軽々しいはずなのだけれど、なるほど、人間楽をすると楽に染まるのですね。
そんな意識を変えてみて、こうして毎日カメラを持ってみることにしたわけですが、やっぱり邪魔ということもない。
カバンにそっと忍ばせておけばいいわけですからね。
そして苦でもない。
毎日カメラを持つことに加え、毎日写真を撮ることも自らに課しているからです。
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思うに、目的もなく「もしものときのために」という意識で何かを持つと、やっぱり邪魔に思う。
その「もしものとき」がいつ来るかわからないから、いつしか「こんなの持ってても仕方がない」という意識になってしまいます。
そういう風に思うと、もうそれは文字通りお荷物です。
だけれども、何かしらの目的を持って、その持ち物に理由付けをしてあげることによって、お荷物ではない。
毎日の必需品であり、僕にとっての武器である。
そしてそれは、毎日持ち歩くことによって時たまその恩恵を受ける。
例えば急に友達に会ったり、急に素敵なお空に出合ったり。
その恩恵はあくまでも恩恵、つまり副産物なのであって、その副産物が主目的となっていては、そりゃあお荷物としての立場から脱することはなかろうに、などと思います。
ともすると、なんだかそういう発想で持ち物のことを考えると、今邪魔に思っているものがありがたいものに思えたり、ありがたいと思ってるものが実は持ってなくてもいいものであったりするのかもしれません。
それは人それぞれ違うでしょうけれど、物事はただそこにあるだけでそれをどう解釈するかは人それぞれみたいなことも言われるように、誰かにとって大事なものが誰かにとって大事ではないように、誰かにとってのゴミが誰かにとっての宝物のように、その誰かが自分である場合、自分自身の意識を変えることによってその別の誰かになりえるとも言えるのかもしれません。
そうしたら、なんだろう。
何でも自分事として楽しめるような気もしてきます。
もちろん全部フォローすることは、人生という制限がある中では実現不可能なので、上手く自分なりに取捨選択する必要はあると思いますが、毛嫌う必要はないのかもしれませんね。
雲がもくもくしく変わるように、心も変わったらば、照らされる場所もまた変わるわけで。
心はまるで天気のようである。
なんて。
完