コメディ映画を観て生と死を考える
2020/11/01
先日『神様メール』というコメディ映画を観ました。
神がパソコンで世界を作るという設定で、悪戯心で勝手にあんなルールやこんなルールを作るんだけど、そんなお父さんに嫌気が差して、反抗的に神の娘が人類宛に「寿命メール」なるものを送るんです。
つまり「あなたの寿命は○年○月○日」というようなメールです。
そこから娘は下界に降りていくつかの人と交流していき云々、っていう感じで話は進むんだけれど、寿命を知るってどんな感覚なんだろうなーということをしみじみ思いました。
というのも、よく言われることですが、もし仮に明日死ぬとしたら何をしますか?って話です。
「あーあーその手の話ね、聞き飽きたわ(鼻ほじほじ)」
という人もいるでしょうけれど、真面目に考えると意外と思い付かない。
明日死ぬのに、何をしたら幸せかなんてわかるわけないじゃないか、と思います。
それと同時に、じゃあ寿命が明後日だったら?
来週だったら?
来月だったら?
来年だったら?
どれくらい生きられるとしたら、一体何をするだろうか、という風に考えると、あれれ?そもそも人間は誰しもがいつかは死ぬんだから、考えるだけ無駄じゃないか?と思えてきます。
仮に3年後に死のうが、30年後に死のうが、今日やることは変わらないんじゃないか?と。
もちろん長く生きればそれだけ生活費が必要であるだろうから、それまでは仕事しなくちゃなーだとか、寿命が短ければ、もう仕事しなくてもいいんじゃん!という風になるパターンもあるとは思うけれど、元も子もないことを言えば、誰にも寿命はわからないわけだからその決断はできないわけですよね。
でも、神に定められているかは別として、実際問題として僕達は明日死ぬかもしれないし30年後死ぬかもしれない。
要するにわからないわけだけど、そんな風に考えていたら「そもそもなんで人間は生きてるんだ?」という中学生みたいなことをまじまじと考えている自分がいました。
どうせ死ぬ。
そんなような言葉もよく聞くと思いますが、ああ本当にそうなんだなとなんだかしみじみ思ったのでした。
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なのだとしたら、なんだろう、何をして生きていくんだろうということも同時に考えてしまいます。
勝手に漠然と僕は80くらいまで生きるようなイメージで考えていたけれど、この感覚のままでは夏休みの宿題をギリギリにならないとやらないタイプの僕は、そもそもその発想で生きていたらいつまで経ってもなんにもできない人間になりそうだ、いかんいかん、という思いであります。
どうせわからないのならば、明日が夏休み終了だというくらいの気概で生きるべきなのか。
いや、それだと全部を投げ出して発狂することも考えられるので、やっぱりいいあんばいで生きるべきなのでしょう。
きっといくらか長く生きるんだけれど、この頃にはこうなっていたい、的な。
それこそ夏休みは終わるけれど、その後の学校生活が待っているような感覚で、自分なりの夏休み期間と言いますか、ある種の制限みたいなものを設けると少し意識は変わるのかもしれません。
「誰も命無駄にしないようにと君は命に終わり作ったよ」
と歌ったのはRADWIMPSの野田洋次郎さんですが、なるほどなと。
生をどれだけ感じられるか、死をどれだけ感じられるかで、ただそれだけでも人の生き方は変わるのかもしれない、というか『神様メール』というコメディ映画を観て僕は今そんなようなことを感じています。
僕は「いつか読みたい本」なるリストを作っているのですが、その中に
『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』
という本があります。
それは「いつか」ではなく「今」となったのでしょうね。
完