7.子供ができたら学校に通わせたくない理由

7.子供ができたら学校に通わせたくない理由

一昨日、兄2人と父とぼくの4人で飲み会をしてきました。

母はお留守番で、兄等の奥さんもお留守番です。

男だけの水入らず。

今回で2回目の開催です(前回は数年前)。

 

大体ぼく達兄弟は、例えばお盆ですとかお正月ですとか、そういう長期休暇の時に集まれば、三人寄れば文殊の知恵的に、いろいろなネタをぶっ込んでは突っ込んでの繰り返しで、大爆笑して終わることが多いのですが、今回は全く様相が違いました。

どう違ったのかというと、終始真面目な話だったのです。

 

どうして真面目になったのかというと、ぼくが

「もし子供ができたら学校に通わせたくない」(爆)

と言ったからです。

ぼくの中ではずっと前から考えてたことで、もはや「誰でもこの考えに至るだろう」くらいに考えていたのですが、やっぱりどうやら違うようなのですね。

 

そりゃあそうなのですよね。

 

兄等も父も大変ショックを受けているようでした。

それは「ゆきちがそんなことを考えてしまうなんて!」という悲観的な意味ではなくて、「そんな考えに至るの?」という純粋な衝撃です。

 

その考えというのがどういうものなのか、その全てを語ろうとするとだいぶ長くなってしまうので、簡単にだけ書いておこうと思います。

 

前にもどこかで書いたと思うのですが、単純に学校教育は無駄が多いと思うのです。

最たるものは、

「自分の思ったとおりに先に進めない」

という点です。

 

と言いますのも、ぼくは算数がめちゃくちゃ得意でした。

そろばんを習ってる子にも引けを取らない自信があったし、つまづいたことはただの一度もなかったです(少なくとも義務教育では)。

テストをすれば、誰よりも早く終わらせてやろうとササッと解いて、顔を上げて「もう終わったぜ」アピールをしていたものです(うざ

 

で、学校教育はここで終わってしまいます。

ぼくは算数が得意だったんだから、自分で言うのもなんですが、もっと先に進んでも良かった子です。

ドリルとかの先のページを見ては、「なるほど、解ける!解けるぞ!」と思いながら眺めていたものです。

 

でも解いちゃダメなんですよね、学校って。

先のところはまた後日にやるから、みんな足並みを揃えて進んでいきましょうというのが、今の日本の学校教育のコンセプトです。

できる子には少し待ってもらって、できない子には頑張ってもらって、みんな平均的に育つようにするのが学校教育です。

 

確かに大人数を育てるには効率が良いと思うのですが、個人レベルで見ると理には適っていません。

だって、ぼくはもしかしたら算数、もとい数学の天才だったかもしれません。

それはもう確認のしようがないことではありますが、可能性だけを見れば当然0ではないですね。

事実、得意だったんだから。

 

反対に、歴史が嫌いでした。

歴史そのものが嫌いだったかは定かではありませんが、興味が持てなかったので、全然覚えられなくて、全然良い点数を取れなかったのです。

だから=嫌いだったのかな?

だもんですから、学校で習った歴史の内容はほぼ全てと言ってもいいレベルで何も覚えてはおりません。

 

きっと人それぞれで得意・不得意があるでしょうから、何かで思い当たる節があることでしょう。

 

得意を伸ばすこともできず、不得意を強いられる。

それが学校教育だとぼくは感じています。

そして、義務教育で言えばそれが9年間続くわけですね。

 

だから、嫌なのです。

それを子供に強いたくない。

 

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という話を兄等にしたら、いろいろ突っ込まれたのです。

「でも学校で教わる大事なこともあるだろう」

「コミュニケーション能力はどうするんだ」

「友達はどうするんだ」

「じゃあ子供に何を教えるんだ」

 

この辺りについても詳しく書くとまた長くなるのでざっくり書きますが、そりゃあ学校で教わることもあるでしょう。

たくさんあると思います。

行事もあるし、友達もできるし、楽しいこともいっぱいあると思います。

 

でも学校に行かない楽しみもいっぱいあります。

自分の好きなことを選んで、好きに学んで、好きに進んでいく。

その可能性を無視して、「学校が大事だ」ということだけを大きく捉えるのは違うのではないか、と個人的に思います。

 

どっちも良い点があるし悪い点がある。

そのどちらもを天秤に掛けて、大事だと思う方を選ぶのが選択というものだとぼくは思います。

 

「でも学校だって大事だよ」

があるのなら

「でも学校に行かないことだって大事だよ」

が成り立つ。

 

「でも学校に行かないと、こんなことが心配だよ」

があるのなら

「でも学校に行くことによってこんな心配があるよ」

が成り立つ。

 

それを踏まえた上で考えると、ぼくの中の重要度は

学校に行く < 学校に行かない

だったのです。

 

「コミュ力」「友達」に関する問題はそこに含まれるので割愛。

 

仮に

「でも子供がかわいそう」

というのであれば、じゃあ才能を潰すことはかわいそうではないの?ということになるので、そこも考えたいところ。

できることなら自分の子供に才能を開花してもらいたい、そう考えるのが親というものかと思います。

そうして才能を伸ばしてあげながら、友達作りのことはまた別で考える、というのが良い方向なのではないでしょうか。

ぼくだって違う学校の友達いましたし、それじゃダメなのかしら?

 

そもそも、学校に行ったらいじめられる可能性もあるし、それだったらみんな付き合いたい人とだけ付き合える環境作りをした方がいいんじゃないの?と個人的には思います。

いじめは、合わない同士が一緒のところに入れさせられることによって起こりますからね。

 

逆境に立ち向かうことによって成長する人もいる?

それいじめられてる子にも同じこと言える?

 

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考えられること、起こりうることを挙げていったらキリがないですから、その全てをカバーしようなんてどだい無理な話です。

こうしたらこういう問題が起こる、ああしたらああいう問題が起こる。

客観的な正解はないですから、正解がないからこそ、人それぞれの育ち方があるべきだと思います。

みんな一緒の教育を受けるんじゃなくて、それぞれに合った教育が本当はあるはず。

 

それは国をあげてやることはいろいろな問題があってきっとできないだろうから、現状個人レベルでやるしかない。

もしくはそういう教育方針の私立を探す、とか?

 

うーん。

 

ここまで書いておいてなんですが、ぼくもあくまでもそういう方向性で考えているという段階であって、まだまだ煮詰めるべき余地があります。

知識が足らない部分もたくさんあるし、見落としてる部分もあると思います。

まだまだ構想レベル。

現実レベルではありません。

 

だからまあとりあえず、話半分程度に聞いてもらえればと思います。

こんな人もいるんだなーって。

 

明日改めて自分で読んでみて、自分にツッコミ入れておきます。

それを記事化するかは未定。

 

です。