「ありのままの自分でいい」の本当の意味

「ありのままの自分でいい」の本当の意味

ところで、

「ありのままの自分でいいんだよ」

みたいな綺麗な言葉があると思います。

 

それと前回の「疲れなさい」という話は相反するように思われるかもしれませんが、ぼくの感覚では同じことを言っています。

 

というのも、

「ありのままの自分」

というのは、必ずしも変わらない自分のままでいいということを言っているわけではないと思うからです。

 

多分そうではなく、日々成長を図りながら、いろいろ試行錯誤して、ああでもないこうでもないと考えて一生懸命生きるその姿が、ありのままの自分なのだとぼくは思います。

決しておデブな人がおデブなままでいればいいとか、短気な人が短気なままでいればいいとかいう、全てを受け入れましょう的なお花畑が広がる世界観で言われていることではないと思うの。

 

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一歩一歩進んでいこう

自分がいいと思う方向に進めるよう努力する。

その努力の過程で出会う人や出合う境遇があると思うのだけれど、その結果どうなったとしてもそれは仕方がない。

それまでに一生懸命やってきた自分で勝負するしかない。

 

振り返ってみればぼくとしても、今のぼくがあの頃に戻っていたらならば、もっと違った形であの人と接することができたし、あの時もっとちゃんとしていられたのになーと思うことがあるけれど、それはその時の精一杯だったのだから仕方がない。

次の時にはそんなことのないように、それを踏まえて乗り越えて、ぼくはまた少し成長できるのだと思います。

そうやってまた次の後悔が生まれて、また踏まえて乗り越えて、また次に繋がる。

そうやって一歩一歩進んでいく。

 

その姿が美しいのであって、決して立ち止まっていっそ雑魚寝でもしてればいいということではない、というのが

「ありのままの自分でいい」

という言葉のぼくなりの解釈です。

 

BUMP OF CHICKENの『stage of the ground』という曲の歌詞にも

「優しくなりたいと願う君は誰よりも優しい人」

と出てきますが、その姿が美しいのであって、その人が「優しくなりたい」と願わなくなってしまっては、もうその人は優しくないのです。

「大丈夫、君は誰よりも優しいよ」

「あ、そう?じゃあもう優しくなりたいとか思わなくていいんだ!」

ということにはならないでしょう。

 

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「精一杯の自分」というありのまま

人間として完璧になって出会えたら、そりゃあ誰とでもお近付きになれるかもしれないけれど、時間は有限だから、その有限の中で少しずつコマを進めていく。

その計画の途中で出会ってしまったならば、その時のありのままの自分を見せるしかないのだから、それを受け入れる。

その結果がどうなるかは運任せ。

良いかもしれないし悪いかもしれない。

でもやっぱり運次第だから、まあそんなに気にすんなよな!っていうことだと思う。

 

なんにもしないで、ぐうたらして、怠惰で、やる気もなくて、面倒臭がりで、活力のない人がありのままでいいとは少なくともぼくには思えない。

今やれる精一杯の自分が「ありのまま」なんじゃなかろうか。

 

ウサギは休まなければカメには負けないのです。

ランラビットランですよ、ランラビ。

 

だから、結果を恐れず頑張りんさい。

ということですね。