後悔することの無意味さと人生を楽しむ「これでいいのだ」という感覚

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前回、期せずして「人生の選択」的な話をしてしまったので、せっかくだからこれについて何か書きたいと思います。

と言いますのも、もう結構前からそんなようなことを思っておりまして、でもその思いが上手く人に伝えられることができなくて、否定されたりもして、でも違うんだよな、なんて思ったりもして、ここでその鬱憤を晴らしたいような、そんなような思いで書くものであります。

 

「後悔」

という言葉がございます。

人それぞれ、大なり小なり、そして多少なりとも後悔していることがあることでしょう。

 

ぼくも過去に悔やんだことがいくつか、いや、いくつもあって、そのことを思い出しては残念な気持ちになっていたものでした。

でももうすっかりそんな風に悔やむような気持ちはなくて、それも含めて

「これでいいのだ」

と思うようになりました。

 

後悔1 バスケットボール

まず真っ先に思い付くのは中学生のときの部活動。

ぼくはバスケットボール部に所属していたのですが、部活だけに留まらず、スポーツ少年団(以下スポ少)なる活動にも参加していて、よくバスケットに触れていました。

でもその実情は、時間的な意味で長くバスケットに触れてさえいれば勝手に上手くなるだろうというような、そんな思いでいたんですね。

つまり、積極的に、自発的に何かバスケットが上手くなるための練習をしていたわけではなかったのです。

部活で与えられたメニューをこなせばきっと上手くなる。

スポ少で言われたことをしていれば勝手に上手くなる。

そんな人任せな思いでいたわけです。

 

でもやっぱり実際は違いますことでしょう。

どうすれば上手くなるかを考えて、思い付いて、実際に行動するから力が付くというものであって、意味もわからず、与えられたことだけをこなして勝手に何かが上手くいくような、そんなゆるいお花畑な世界はほとんどない。

 

これは何かの経験によって導かれた考えなのか、それともそれが大人になるということなのか、果たして実際のところはわかりませんが、今もしこんな思いを抱きながらまた中学生活を送ることができたならきっと凄いバスケットプレイヤーになってやるぜ!フー!みたいなことを、後悔の念と共に考えるわけです。

そしてきっと、誰でも一度はそんなような妄想をしたことがあることでしょう。

 

どうして自分はあのときもっと頑張らなかったのか。

もっと頑張ってたらもっと活躍できたのに、などと。

 

でも今は違うんですね。

そんな風には思っていなくて、後悔もしていない。

 

かつてスティーブ・ジョブズが語ったような

「自分の経験は全てに意味があるんだ!」

みたいな発想とも違うのですが、これでいいのだ、という漠然とした思いがあるのです。

 

それはどんな思いかというと、仮に一生懸命バスケを練習したとして、そして仮に凄いプレイヤーになってしまったとき、今の生活はないという確かな感覚があるのです。

仮に一流プレイヤーになってしまったとしましょう。

もしかしたらぼくは部長になっていた可能性もあるでしょう(実際は副部長だった)。

もしかしたら県の選抜選手なんかに選ばれていた可能性もあるでしょう。

そのときぼくのアイデンティティは「バスケット選手」として確立されていたことでしょう。

そうすると高校に入ってもぼくはバスケットボール部に入ってしまったことでしょう。

そうすると、多分ぼくはバンドをやっていないんですね。

時間的な意味でも「ドラムマニア」をやっていなかっただろうし、ギターも弾いていないかもしれない。

高校はあの高校ではなく、別のバスケの強い高校に行っていたかもしれないし、そうしたらできる友達も当然違ってくる。

友達が違えばぼくの性格も違う。

性格が違えば行いも違う。

行いが違えば結果も違う。

ともすると、今の生活はありえない。

バンドをしていたから出会えた人もいるし、そこには大切な人も当然含まれています。

 

しかしながら、

「でもバスケしてたらバスケの方でも出会いがあったんだよ?」

「そっちの方が良かった可能性もあるんだよ?」

という疑問も当然出てくることでしょう。

でもその選択をしたときの結果は絶対にわからないことですから、今起きてしまった出来事に対しては、当面

「これでいいのだ」「これでよかったんだ」

と思うほかないのです。

 

確かに実際のところは良かったのか悪かったのかなんてわからないけれど、どっち道、知る由もないし変えることもできない。

なら、良いって思ってた方が良いだろう、と。

 

だから、後悔していないのです。

確かにそうできたんだけど、そうしてしまったときの生活は未知数ですから、安易に「そうしていれば!」などとは思えない。

し、ぼくはバンドをしていて良かったととりあえずながらも思っていますしね。

じゃあ多分、バスケを選ぶより今の方が良かったんだろうと、少なくとも現段階では思えるのです。

 

あるいはバスケを頑張ったとして、てんで上手くならなかった可能性もあるでしょう。

あんなに一生懸命頑張ったのに、あいつにも勝てないこいつにも勝てない、そうか、自分は才能がないんだ、なんて絶望した日には、「頑張る」っていうことの意味を忘れてしまうかもしれない(「頑張る」ということについては過去に何度か書きましたが、便宜上今は「頑張る」という言葉で通します)。

 

そうしたら、その後のぼくは

「どうせ自分なんて」

と自分を卑下する癖が付いて、なんにもできないまましんでいたかもしれない。

飛躍的ではありますが、そんなように、バタフライ効果のごとく、小さな違いが大きな違いを生むものです。

 

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後悔2 2週間の彼女

もう一つ過去に「後悔」を経験した例を出しましょう。

あれは高校3年生のときです。

こんなぼくにも彼女ができたのですが、2週間でフラれてしまいました。

 

その原因は

「夜に連絡してくれないから」

というしょーもない理由。

 

いや、ぼくは頑張ったのです。

せっかくできた彼女ですから、大事にしてあげようと、ちゃんと欠かさず連絡を取ろうと思っていたんです。

でもね、当時ぼく、新聞配達をしてたんですよ。

朝はどんなに遅くても5時に起きていましたから、当然早く寝たいんですね。

でも夜12時とか、時には日をまたいだりもして結構頑張ってたんですよ。

 

偉くない?

 

でもやっぱり睡魔には勝てなくて、しょっちゅうメールの途中で寝落ちしちゃって、そうすると電話が掛かってきて、怒られて、謝って、でも数日後また寝ちゃって、怒られて、謝ってを繰り返していたら、2週間でフラれたのでした。

 

そんな新聞配達しているぼくの身を案じない彼女が良い子だったのか、それとも悪い子だったのかという議論はひとまず置いておきましょう。

そのときぼくは若気のいたりもあったし、恋に盲目だったこともあって、とっても後悔したのです。

 

「ああ、新聞配達なんかしていなければ……!」

と。

 

そうしたら夜も眠くならんと、ちゃんと連絡も取って、もう少しくらい長くお付き合いできていたかもわかりません。

だから当時、ぼくはとっても後悔したのです。

 

でも振り返ってみれば、そんな構ってちゃんイヤだなー(爆)と思うわけです。

面倒臭いし。

 

「だから後悔はないんだ」

という考えに行き着くのは想像が付くと思いますが、じゃあだからと言って、すぐに別れて正解だったか?というのもわからないのです。

だって、長く付き合う中で生まれる変化というものもあるし、当時のぼくも大概だったと思うし、人は皆成長するものですから、幾年先で最高のカップルになっていた可能性も一抹ながらあるでしょう。

 

ともすると、あれで果たして良かったのかということはわからないし、かと言って長く付き合っていてもそれで良かったかということはわからないのです。

わからないなら、じゃあ現状に満足するほかなく、やっぱり「これでいいのだ」に行き着くわけです。

 

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1つの選択が及ぼす多大なる影響

長くなってきましたが、最期にもう一つだけ例を出しましょう。

これは「後悔」の話ではないのですが、選択が及ぼす影響についての話です。

 

ぼくは一度会社を辞めています。

そしてその後継者(?)として、ぼくの高校時代の友人が入社する形となりました。

そのおかげでぼくは早々と辞めることができたのでした、どうもありがとう。

 

さて、仮に辞めなかったとき、ぼくは今頃どうなっていたのだろうか?というような発想の話はもう散々したので割愛しましょう。

重要なのはその友人。

ぼくがもし辞めていなかったら、当然彼はその会社に入っていないわけです。

じゃあ入らなかったとき、彼は今頃何をしていたんだろうか、と。

もしかしたらあの会社に入るよりも良い会社に入っていた可能性もあるし、あるいは今より悪い状況に陥っていた可能性もあります。

彼の環境・状況がもし今と違っていたならば、彼に関わる人々もまた、どう違う影響を受けていたのでしょうか。

そしてその違う影響を受けた人もまた、別の人に違う影響を与えていたことでしょう。

 

そんな風に、1つの選択の違いが、社会をガチャガチャと動かしていく感覚があります。

今ぼくがこういう記事を書こうと思って、そして実際に書いたことによって、ぼくの心境にもまた少なからず変化が生じると思いますし、これを今読んでいるあなたの心境にも何か変化があるかもしれない。

変化があったとき、生き方が変わるかもしれない。

生き方が変われば、やっぱり誰かが変わるかもしれない。

誰かが変われば、バタフライ効果が起こるかもしれないね。

 

マンガ『進撃の巨人』のリヴァイ兵長が、命令を無視して勝手に行動しようとする主人公エレンに対してこんなことを言うシーンがあります。

「お前は間違ってない」「やりたきゃやれ」

(中略)

「自分の力を信じても…信頼に足る仲間の選択を信じても……結果は誰にもわからなかった…」

「だから…まぁ」「せいぜい…悔いが残らない方を自分で選べ」

進撃の巨人6巻 P.123~P.124

 

誰かの成功体験に照らし合わせてみると、その選択は間違っているものかもしれないけれど、それがその人にとって間違っているかはわからない。

あるいはその状況では間違っていないのかもしれない。

ともすると、そこから先に何が待っているかなんていうことは、やっぱり誰にもわからないではないか。

 

じゃあ自分を知って、世界を知って、知見・哲学を養って、自分なりの世界観・価値観をもってして人生の選択をしていくことしか、ぼくら人間にはできないのでしょう。

その上で選んだことが正しいかは、それでもやっぱりわからないことだけれど、行き当たりばったりの偶然性だけに頼った生き方よりかは、少しだけ良い人生が送れるようになれるとぼくは思うのです。

 

だからぼくは、現状ぼくが思う、正解だと思う選択をしていきたい。

でも一生それが正解かはわからないから、どうせわからないなら「これでいいのだ」って自分に言い聞かせるしかないから、じゃあそれこそが人生を前向きに楽しく生きるコツなんじゃないかなーともまた思ったりするのです。

後悔したって仕方がない。

 

BUMP OF CHICKENの藤原さんも『(please) forgive』で歌っていますことでしょう。

自分で選んできたのに 選ばされたと思いたい

 

自分で選んで、結果に責任を持つ。

ちょっとしんどいけど、それが人生を楽しむ秘訣だと思うし、生きることだと思う。

 

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