自分なりの正義を見付ける方法

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フードコートでのお話を踏まえたお話です。

世の中には答えがないことばかりであって、何が正しいのか、何が正しくないのか、わからなくなるときはないでしょうか。

 

例えば健康の話を取ってみれば、朝食は食べない方がいいとか食べた方がいいとか、睡眠は5時間がいいとか7時間がいいとか、フルーツは体にいいとか体に悪いとか、それぞれでみんな言ってることが違います。

しかもたちが悪いことに、それぞれのことはそれぞれでちゃんと研究をしている、あるいは研究結果を参考にして求められた答えばかりです。

ともすると、どちらにも裏づけがあるとも言えて、裏づけがありながら矛盾が生じており、素人にはどちらを信じたらいいのかわからない、というのが現代の健康法事情だと思います。

 

そういう知識的な話に限らず、例えばどこまでマナーを守ればいいのかとか、どこまで誰かを手助けするべきなのかとか、どこまで伝統的であればいいのかとか、人それぞれによって尺度の違うこともまた多々あると思います。

 

客観的な正しさはなく、誰かにとっては正解でも誰かにとっては不正解。

そんなことばかりな時に、じゃあ一体自分はどう生きたらいいのだろうか?と考えたことはございませんか?というお話です。

 

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自分なりの正義の作り方

最終的に行き着く答えは

「自分が正しいと思うことをするしかない」

ということになります。

ただ、そこまでに行く着く過程がぼくは大事だと思います。

 

例えば

「うちのばあちゃんが言ってた!」

みたいな、誰かに聞いた話、あるいは誰かの価値観をそのまま鵜呑みにして形成した正義というのは、とても薄っぺらくなってしまいます。

薄っぺらだし、心変わりもいくらでもする。

Aと言われればAのような気もするし、Bと言われればBという気もする。

それは心から信じる自分なりの価値観がないからです。

 

(もちろんばあちゃんが悪いわけではない)

 

でも実体験が伴って、自分で考えた正義というのは、芯があるものになる。

Aなことをされて傷付いた経験があれば、相手にもAなことはしないし。

Bなことをしてもらって嬉しかった経験があれば、相手にもBなことをしようと思える。

そういう経験がいくつもいくつも重なって、人は強く、優しく、清らかになれるとぼくは考えます。

 

しかしながら、芯があるからと言ってそれが客観的な正しさであるものとも言えない、というのが冒頭の話です。

自分としては正しいと思うけれど、それを正しくないとする人もいる中で、どこまで我を通すのか、というのは大変悩みどころです。

 

自分なりの正義の通し方

ぼくもずいぶん悩みましたし、いまだに自信があるとは言えないのですが、一応の答えを考えました。

先に

「最終的に行き着く答えは、自分が正しいと思うことをするしかない」

ということを書きましたが、つまりどうしようもないのです。

客観的な答えがない中でいくら悩んでも仕方がなく、どっち道答えが出ないものなのであるならば、自分なりに考えた答えを貫き通すほかないということです。

 

Aを選んでもダメ、Bを選んでもダメ。

じゃあ自分が思う正しい方を選ぶしかない。

 

仮にそれがAだったとき、Bの価値観の人に非難されることもあると思いますが、それはもう仕方がない、という考え方です。

全員を納得させる答えは絶対に永久に出ないんだから、だったら現状の自分の答えを通す。

 

ただし、ちゃんと考えなくちゃダメだよ、ということ。

これが

「ばあちゃんがAがいいって言ってた!」

では、すぐにB派の人にけちょんけちょんにされてしまいます。

顔を真っ赤にして

「だってばあちゃんが言ってたもん!ぷんぷん!」

と言い返すのが関の山です。

 

でもAのこともBのことも深く考えた結果、Aに行き着いた答えというのは、自分なりの正義が宿っているので、B派に何か言われようとも揺るぎはない。

もちろんそのB派の意見が的を射たものであったらば、場合によってはAからBに移り変わることも考えられますが、それはそれで考えた結果のことなので悪いことではありません。

 

悩んだ答えは摺り寄せが可能

そして考えて求められた答えというのは、摺り寄せも可能になります。

例えば全くのAかBということはなく、B寄りのAとか、A寄りのBとか、AとBを半分ずつとか、いろいろなバランス具合があるものです。

 

テーブルマナーなんて糞食らえ!と言って、寝転んでテレビをつけながらスマホいじって手掴みで飯を食う人はなかなかおらんでしょう。

家の中ともなるとなんとも言えませんが、お店でそうしてる人はまず見られません。

それは世間の目との摺り寄せです。

どれだけテーブルマナーをくだらないと思ってる人であっても、ある程度の人間らしさは心得てるものかと思います。

 

反対に、テーブルマナーを重視する人であっても、完全に完璧である人はほとんどいないでしょう。

もう少しちゃんと言うと、それこそ客観的な「完璧なテーブルマナー」は存在しないと思われます。

宗教の違いがあるように、同じ「完璧を目指す」という志であっても、ゴールが違う場合が往々にしてある。

健康の話と一緒ですね。

 

と話が逸れてしまいましたが、とにかく 10:0 はないということです。

8:2 とか。

6:4 とか。

何事もそういうバランス感覚が誰にでもあるものです。

 

そして考えて求めると、そのバランスを取るのが上手になる、ということですね。

 

「ばあちゃんが人を傷付けたらいけないって言ってた!」

という価値観では、誰にも注意ができなくなってしまいます。

どれだけ物腰柔らかくたって、注意されたという事実だけで傷付く人は傷付くからです。

 

でも誰にも注意しないで終わる人生というものもないでしょう。

だったら、時には「傷付ける」ということも必要ということになります。

もちろん率先して傷付けるということではありませんが、傷付く可能性もしっかり踏まえて、つまり 10:0 だったらバランスをせめて 7:3 くらいに調整して、時には注意しなければならない。

「傷付ける」というよりか「傷付けてしまう」という表現の方が正しいかな?

そうやって自分なりの正しさのバランスを取っていく必要があるわけです。

(もちろん殺生は 10:0 でありたいところですが)

 

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完璧を目指すけど完璧である必要はない

さて、思いのほか長くなりましたが、まとめると、

  • 経験して、考えて、自分なりの答えを出すこと。
  • けれども、相手の(対立する)意見を聞く柔軟さも大事。

ということになります。

 

その結果誰かに非難されようとも、それはもう仕方のないこと。

精一杯自分なりに考えたことならば、それ以上のことは望めないですからね。

 

どんなに死力を尽くしても、それを認めない人は必ずいます。

どんなに完璧であろう動画(YouTubeとかの)であっても、絶対にバッド評価は付くものです。

そういった意味では「完璧」はありえないわけですから、完璧である必要がないという諦めもつきます。

 

もちろん、やれるだけのことはやる。

その上で出た結果というのはどうしようもない。

 

完璧を目指しながら、完璧である必要がない。

とても矛盾した答えに聞こえるかもしれませんが、非常に重要な考え方なので、ぜひいろいろな面で参考にしてほしいなと思います。

 

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