姪にバズが殺された

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昨日、実家に帰ったら、僕らのバズが姪に殺されていました。

 

悲しい。

しかし、対象年齢はいくつになっていたか。

姪はまだ3歳くらいだったと思うから、多分対象年齢より低いんだろうから、与えた祖父母の責任である(キリッ)。

 

ただ、このバズは父がハワイに行ったときに現地で買ってきてくれた、リアルアメリカ産のバズ・ライトイヤーなのだから、もしかしたら対象年齢云々の記載はなかったかもしれない。

でも映画『トイ・ストーリー』でミスター・ポテトヘッドが対象年齢について言及しているシーンがあったので、アメリカでもその概念が当たり前なのならきっと書いてあるんだろうな。

 

しかしながら、当然のこととして、姪はバズが命を落としたことになんら関心はない。

首が「取れた」くらいの認識はあるだろうけれど、形ある物が「壊れた」という認識はないのだろうし、当然そこに「ごめんなさい」という感情もない。

ともすると、そういった感情はこれから芽生えるものであるわけだが、その感情は一体どこから来るのでしょうか。

育てば勝手に身に付くものなのか、沸き起こる感情なのか。

それとも外的要因があって、後天的に芽生えるものなのか。

じゃあ人間が生まれながらにして持ちえる感情はどれくらいのものがあって、どこからが外的要因によるものなのか。

どれくらいが抗えない性格なのか、どれくらいが避けられる性格なのか。

性善的であるのか、性悪的であるのか。

 

姪にとってはこれから、どんな経験をしてどんな風に育っていくのかという、とても大事な時期に差し掛かるのでしょう。

今からこのバズを引き合いに出して、「おじちゃんバズが壊れて悲しいな」なんて教える必要はないと思うけれど、どこかの何かのタイミングでそういうことも必要になってくるのかな。

全部が全部「いいよいいよ」みたいな、石丸先輩みたいな対応をしていればいいというわけでもないんだろうな、と思いました。

大人であれば大人であるからこそ、大人としての大人を見せるような思いで、大人の対応をするべきなのだろうと思います(自分でもちょっと何言ってるかわからない)。

 

要するに「全てを許しましょう」が正しいあり方というわけではないんだろうな、と思いました。

じゃあどこまでを許容して、どこからを許さないのか。

いや、心情的には全然怒ってないので、本質的には「許し」ではあるのだけれど、その行いが正しくないと判断されるものであるならば、それは「正しくない」と教えることも必要なのでしょう。

 

でもその「正しい」「正しくない」という判断だって、結局大人のエゴとでも言いましょうか、その大人が間違ったものであるならば、その教えもまた間違った教えになるということになります。

 

じゃあ正しさってなんなんだろう。

 

何かを教えるという立場は、責任重大です。

良くも悪くも左右することになるのだろうから、自分の正しさにどれだけの正しさを感じられるか、自信が持てるか。

きっと僕は、まだ子育てられるほどの自信はない。

 

 

そんなものは一生持てないような気もするので、最終的にはどこで折り合いをつけるか、なのかな。

 

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  1. 2019 08.26

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