作曲するにあたって、音楽のセオリーと独自性について

作曲するにあたって、音楽のセオリーと独自性について

多分、音楽は言語に似ていると思いました。

英語に例えてお話したこともあったけれど、そういう特定の言語ということではなく、純粋に、言葉を紡ぐことと音楽を紡ぐことは似ているなーと思ったのです。

 

ぼくは音楽的なセオリーを嫌った、という話もしました。

主にコード進行のセオリーを嫌い、セオリーを学んでしまってはセオリーに引っ張られて、独自のコード進行感を出すのが難しくなるのではないか、と考えたからです。

でも改めて今ちゃんと勉強してみて、様々な曲に耳を傾けてみると、そういうことではないんだなと思ったのです。

 

コードは言葉である、と。

このコードの後にこのコードを。

こんなコードの後にはこんなコードを。

コード一つ一つに意味があるのではなく、前後関係によってコードの役割は変わり、そこから広がる全体的な音楽のイメージも大きく変化します。

 

言葉も同じだと思うのです。

ぼくも文章を書くけれど、じゃあこの文章はセオリーを踏まえていないのでしょうか。

というと、そんなことはない。

今日まで生きてきたぼくの経験の集大成として

「こんな風に書くと伝わるのではないか」

という発想のもと、言葉は紡がれると思うのです。

 

伝わる文章には、伝わって然るべきセオリーがある、と。

どんなにカッコイイ単語を並べてみたところで、それが支離滅裂では言いたいことは伝わらない。

 

だから、ぼく達人間は文章力を生かして、言葉をちゃんと順序立てて並べて、人様に気持ちを伝えて、それに対して反応をもらって、その反応に対しての反応を自分でまた文章にして相手に伝える。

そうやってコミュニケーションを取るのがぼく達人間です。

 

音楽もそうなんだろうなーと。

ぼくは若気の至りから、自分が良いと思う自由な発想でコードを並べてみることを選んでみたわけですが、それは要するに、言葉は知ってるけど文法がさっぱりな人が書く文章となんら変わりはなかったのでしょう。

「芸術」として、言い訳していたようにも思います。

 

やるべきことは、正しい文法を学んで、その正しさの中でまず文章を書けるようになること。

それからわざと外してみたり、変な表現を使ってみたり、突拍子のないことをあえて言ってみたりして、文章にも色が付くと思うのです。

コードもそれと一緒で、正しいセオリーがあり、セオリーがあるからこその「外し」が生まれ、そこに独自性が光るものと思います。

 

かの有名な久石譲さんも言っています。

「音楽っていうのは、96%まで技術です」

 

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音楽にはある程度の「こうするとこうなる」という理論が確立されています。

そこにぼくは絶望したこともありましたが、考えてみると絵なども同じです。

人の顔はここに目があって、鼻があって、口があって、耳があって、そこから首があり、体があって云々。

それもある意味では理論です。

動物も、景色も、建築物も。

そういう当たり前の物をまず描けるようになってからの独自性があるのでしょう。

 

ぼくはそれを、いきなり

「ただ人間を描いただけではつまらない」

としたことを音楽でやっていたことになります。

 

それが許されるのは天才だけ。

しかし悲しいかな、天才と呼ばれる人はすべからく努力しているものである。

天才が努力して至る境地に、凡才のぼくが努力もしないで足を踏み入れたのでは、事故が起きてしまいます。

 

そんなのは、新世界に行こうとする、『ワンピース』のルフィになっちゃいます。

そんなのは、グルメ界に行こうとする、『トリコ』のトリコになっちゃいます。

強者達に簡単に負けちゃう。

 

せめて覇気を扱えるくらいにはならなくちゃ。

せめて食義を覚えたり適応力を高めるくらいはしなくちゃ。

 

総じて、せめてその世界のルール(セオリー)を覚えなくちゃ。

話はそれからなのでしょう。

 

そんなことを10年前に気が付きたかったなー。