やれることはやるべきだがなんでもやればいいということでもない論
2020/05/21
昨日BBFFに行く前に、図書館に行きました。
宮城県図書館なんですけれども、本が並べられてるフロアは3階になるので、階段ないしエスカレーター、あるいはエレベーターを利用して上がります。
ぼくは
「動けるときに体を動かしておくべきだろう」
という考えなので、当然階段で登ります。
ところが、ぼくが階段を登っている横のエスカレーターで、悠々と3階に上がっていく小学生が目に止まりました。
君、もっと体を動かしなさい。
さて、本も借りたことだし、今度は1階に下ります。
また階段か?と思われるかもしれませんが、下りは膝を悪くしてしまうので、極力避けます。
だから今度はエスカレーターで下っていたのですが、その横の階段を一生懸命下っているおばあさんが目に止まりました。
おばあさん、体をもっといたわってください。
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やれるときにやるべきだけれどなんでもやればいいということでもない
と冗談めかして書いたけれど、これは本当に思うこと。
動かせるときに体は精一杯動かしておくといいと思います。
大型スーパーとか行くと、みんなみんな入り口近くに車を止めようと躍起になっていますが、遠くに止めて歩いて行ったっていいんじゃよ。
反対に、やたらと体を動かせば良いというものでもございません。
うさぎ跳びは膝に超悪い、というのはもはやご周知のことと思いますが、階段の下りもバカにはできませんでしょう。
そこまで影響が大きいのか、定かではございませんが、支障をきたす可能性があるのなら極力避けるべき。
つまるところ、やれることはやるべきだけれど、そのやるべきことに対する知識も必要だろうと思うのです。
ギターが上手くなりたいならギターを弾くべきだろうというのは当たり前のことだけれど、その練習方法は果たして正しいのだろうか?というところまで考えられない人は少なくないと思います(ぼく含め)。
健康になりたいならば適切な食事をするべきだろう、というのは誰にでも了解できることだけれど、野菜だけ食ってればいいというわけではないでしょう。
でも「野菜食べれてばとりあえず健康になるんでしょ?」と思ってる人もいると思います。
痩せるには運動しよう、じゃあ腹筋だ!となったとき、腹筋の仕方にもいろいろあって、仕方によっても鍛えられる部位というのが違うと思います。
腕もそうだし、脚もそう。
じゃあスクワットしよう!ってなったとき、膝を完全に曲げるまで腰を下げるのはよろしくない。
そういうところまで踏み込まず、
運動 = 健康に良い
という認識で留まってる人は少なくないはずです。
なんでもやればいいということでもない。
何事も先に頭を鍛えるべきと思う理由
だからぼくは、知識ベースで何かに取り組むよりも、もっと根っ子の部分、自分で考える力を伸ばすことが先なんじゃないかと思うのです。
武井壮さんは、スポーツの練習をする前に、自分の体をイメージどおりに動かせるようにするトレーニングを積んだと言います。
例えば水の入ったコップを取るとき、コップのどの部分に指を掛けて持つかをイメージし、そのイメージと少しでもずれた位置に指が掛かった場合、それはイメージどおりの動きができていない証拠。
そのときはまたコップを持ち直す、と何かで語っていました。
そういうトレーニングを積むことによって、自分のイメージどおりの動きをすることができるようになる。
そうしたらどんなスポーツでも、少し練習するだけでイメージどおりに動けるようになるので、そこらの人よりも上手にこなすことができる、というのが武井壮さんの運動論です(それで経験の浅い十種競技で日本一になったと語ります)。
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それと同じようなもので、先に頭を鍛えて、物を考える力を伸ばせば、どんな場面でも応用が効くようになるということです。
健康になりたい、その為にはどうすればいいだろう?
運動したい、じゃあどんな運動をすればいいだろう?
楽器の練習をしたい、どんな練習をしたら上手くなるだろう?
それらの問いに答えてくれる知識や情報は、本だったりインターネットで簡単に得ることができるけれど、そこに自分なりの哲学がない限りは腑に落ちることはないでしょう。
はじめこそ
「なるほど!」「そうなんだ!」
と思えたとしても長続きしない。
いわゆるそれらはノウハウというものになると思うのだけれど、ノウハウを作っていく側になるくらいのメンタリティで取り組まなければならないでしょう。
そんなことを、図書館の階段を上りながら、エスカレーターを下りながら思ったのでした。
完