人間にできて機械にできないこと

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お晩です。

人工知能(AI)の発達によって人間の仕事がなくなるのではないか?なんてことが言われ始めて久しいですが、恐らくは最後まで取って代わられない人間だけが持ちえるものがあるであろうと、人知れず考えてることがあります。

何かというと、昨日もチラッと書きましたが、哲学的視点を持った価値観・倫理観・世界観・人生観、ひいては「考えて導き出された自分なりの答え」です。

 

要するに「自分らしさ」です。

 

機械は確かに頭が良くて、計算が速くて、何かデータを処理するのに長けています。

例えばスーパーコンピュータとされる『京』の計算速度は、1秒間に1京回と言われています(だから名前が『京(けい)』)。

1京回と聞いてピンとこない人の為に数字で表しますと、10,000,000,000,000,000回となります。

それがどれだけでかい数字かというと、世界人口の約70億人が1秒間に1回計算できるという前提で一斉に計算し始めて、約17日掛かる計算になります。

そんな途方もない計算を1秒で終わらせてしまうのが『京』ということです。

 

確かに凄い。

確かに凄いけれど、愛を語れるか?って話なのです。

音楽を語れるか?って話なのです。

映画を語れるか?って話なのです。

 

もちろんネット上に落ちている「音楽とは」みたいな話を膨大に拾ってきては、それを圧倒的なスピードで処理し、最適解を出してくるかもしれない。

出してくるかもしれないけれど、それはきっとテストで良い点を取るための「解答」です。

 

でも人間ってそうではないじゃん?

そういう知識の塊的生物ではないじゃん?

 

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一般的な言葉で言えば、「心」とでも言えばいいでしょうか。

僕達には心があって、心を込められて、心を感じられます。

 

例えばだけれど、クラシック音楽を聴く際には、その作曲者の生い立ちやら人柄、人生観なるものを想像し、どんな想いが込められた曲なのかを考えながら聴くと聞いたことがあります(僕にクラシックの素養はない)。

そして演奏する側も同じようなことを考え、想像し、自分なりの解釈を持って演奏する。

その解釈が人それぞれで違うから、人によって微妙に演奏が変わるし、聴く方もその違いを楽しむことができるわけです。

 

じゃあ機械が楽譜どおりに演奏したところで、その作曲者の心を表現することはできるでしょうか。

 

きっとできないでしょう。

いや、絶対にできないでしょう。

 

いや、あえてできるとしましょうか。

できるのならば、じゃあ自動演奏される電子ピアノをコンサート会場において、人々はそれを聴いてればいいじゃん、って話になっちゃいます。

だって、機械ならミスもしないし、完璧な演奏をしてくれるんでしょう?

じゃあそれに越したことはないよね、って。

 

でもそれがどれだけ味気ないものであるかというのは、僕が言うまでもないことでしょう。

そんな亡霊的コンサートに誰も行きたくはない。

 

なんで僕達人間はライブに行くのでしょうか。

ライブ会場で、爆音でCDでも流せばいいじゃないか。

っていうと、やっぱりそうじゃない。

そのアーティストがそこで歌っている(演奏してる)からありがたいし、嬉しいんだ。

 

だから、機械が完璧に再現してくれればそれでいいかというと、そうではないんだ。

 

なぜ僕達人間は生きているのでしょうか。

それを機械に問い掛ければきっとまた膨大なデータから、相手に合わせたもっともらしい答えを(文字通り)一瞬で探して提供してくれるでしょう。

 

でもきっと納得はできない。

そこに実が伴っていないから。

 

でも自分が尊敬してる人とか、順風満帆な人、あるいは反対に苦労してるのが目に見てわかる人から同じことを言われたりすると、ハッとしたりする。

同じ言葉でも、言う人によって伝わり方が変わるわけです。

 

もしくは、誰かの生き様を見て気付くこともあるかもしれない。

言葉なんかじゃなくて、背中を見て何かを感じるかもしれない。

そういう境地には、きっとずっとまだまだ機械に至ることはできないと思うのです。

 

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童謡の『シャボン玉』の歌詞は、作詞者の子供が幼くして亡くなったことから書かれた詞だと、小学生のときに先生に聞きました(調べてみたらソースはないらしい)。

シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた

風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ

作詞:野口雨情

真実かどうかはとりあえず置いておいて、それを踏まえた上で読むと、童謡でありながら、とても悲しい歌に聞こえます。

 

こんな風に背景があるのとないのとでは、その意味の受け取り方が違います。

そして仮に機械が同じことを書けたとしても、こういう背景は作れない。

 

僕達は生きた人間です。

その人間味をより色濃く出すには、きっと一生懸命に生きるほかない、みたいなことは前にも書いたとおりです。

その何に対して一生懸命になる(なった)かによって、個性が生まれるのでしょう。

 

そして、その個性が必要ない仕事から、どんどんと機械化が進むのだと思います。

 

きっと世界は「機械に何ができるのか」から「人間に何ができるのか」という問い掛けに変わっていくと思います。

 

僕は「人間」として生きたいな。

 

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