大人として、子供として
こんばんは。
ふとなんだか筆を取りたくなったので、筆を取ってみようと思います。
僕は文章を書くのが好きです。
「文章を書く」っていう行為が好きなのであって、ネタがあるかどうかは関係がありません。
とにかく「なんだか書きたい」という衝動に駆られることがあるのです。
絵が好きな人は、なんだか筆を取って、絵を描きたくなるものかと思います。
ギターが好きな人は、なんだかギターを手に取って、なんでもいいから弾いてみるものかと思います。
それと一緒です。
僕達は、なんだかしたいように思い感じることがあるのだと思います。
そういう気持ちの集合体と言っても過言ではない、いや、化身とでも言いましょうか、そういう興味関心に従順なのが「子供」であるという風に言えると思います。
子供の頃ってみんなアグレッシブです。
でもそういう純粋な気持ちを、外的要因によってか、はたまた人間という生き物はみな自然的にそうなるものであるのかはわかりませんが、「大人」になっていくと少しずつその気持ちは薄れていくように思います。
でも薄れていったらどうなっちゃうんでしょうか。
全部面倒臭くなっちゃうんでしょうか。
ギターを弾きたいという気持ちがあったとき、「でも面倒臭いな」とか「弾いても意味はないしな」とか思うようになったら人生はつまらないと思うのです。
ゲームがやりたくても大人になるとやらなくなる、という話もよく聞きます。
やりたいっていう気持ちはあるんだけれど、なんだか面倒臭いっていう状態。
仕事で疲れて帰ってきて、そこからわざわざ電源を入れてまでゲームをする気にはならない、みたいな話なのでしょう。
気持ちはわかる。
気持ちはわかるけれど、それでは少しつまらないと思うのです。
その「面倒臭い」という気持ちをなんだかどうにかしたい。
子供の頃って面倒臭いだなんて思ってたでしょうか。
思わなかったと思うんですね。
もちろんやりたいくないことは全般面倒臭くてぷんぷん臭うってなもんですが、やりたいことに対して面倒臭くてぷんちきちんくっさー!みたいなことは誰にもなかったと思うのです。
やりたいもんはやりたいのであって、そこにどんな障害があったって僕達はやったんだ。
僕がエレクトーンを独学で弾き始めたのは小学5年生のときでしたが、当時は真冬でも寒い中弾いてました。
何故だかそのエレクトーンは家の廊下に置かれていたので、僕は寒い廊下で一人ホットコーヒーを脇に置いて、上着を着てエレクトーンを弾いていたのです。
それが全然苦ではなかったのです。
寒くたってなんだって弾きたかったのです。
でも今ならどうでしょうか。
ああ絶対に弾きに行かないよな、とわかってる自分がいます。
僕は大人になってしまったようです。
多少寒かろうが暑かろうが、そこにエレクトーンが置かれているのならばどこにだって弾きに行っていた当時の僕のメンタリティは、一体どこに行ってしまったのでしょうか。
そんな気持ちを取り戻したい、ああ取り戻したい。
そんな思いを抱きつつ、今日のお話しです。
ここまでノープランで書いてきましたが、今言いたくなったのはそういうことでした。
なんか前にも似たようなこと書いた覚えがあるのですが、ここまで書いてしまったのならばしょうがない、許そう。
僕達は、大人の精神を持ちながら、子供のような純粋さを兼ね揃えられたなら、人生はいくらか良いものに転じるような気がします。
落ち着きながらもはしゃぎたい。
子供のままじゃダメだけれど、大人らしく大人しくするだけでもつまらない。
そのバランスは人それぞれ違うでしょうが、自分なりのバランスは確立したいものですね。
さてさて、脈絡もないですが、そろそろお風呂に入ってきますのでこの辺で。
またね。
ノシ
完