『(please) forgive』で考える自由に生きる難しさ(歌詞解釈)
2020/05/21
『FREEDOM』の話で「自由」について少し書いたので、この流れでBUMP OF CHICKENのアルバム『RAY』に収録されている
『(please) forgive』
という曲の歌詞についてちょっと書こうかと思います。
『(please) forgive』は藤原さんの説教だと思ってた
ぼくは歌詞を深く読まない、という話はどこかでしたと思いますが、なんとなーく耳に入ってくる歌詞を聞くに、ずっと
「自由になったら自由になったであたふたするくせに不自由であることに文句を垂れる愚か者に対し藤原さんがめちゃくちゃ説教している曲」
だと思ってました(爆)。
でも改めてちゃんと読んでみると、うん、全然違ったね(てへ)。
他の方の歌詞解釈を読んでみると、「あなた」と「私」が別人であるか、それとも同一人物であるか、ということについて書かれていたので、ぼくもまずこれについて書きたいと思います。
ぼくは、同一人物派。
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1番の歌詞解釈
冒頭
あなたを乗せた飛行機が あなたの行きたい場所まで
とあるわけですが、アルバム『ユグドラシル』に収録されている『ロストマン』に似たような境遇を感じます。
というのも、ここでいう「あなた」は、こちらの道を選ばなかった、そちらの道の自分かなと思いました。
一方こちらの自分は、別に元気でもないけれど、それが平常で不満もないし、てか生活に変化なんて求めてないしさ、現実ってマンガのようにはいかないんだよ、と腐ってるご様子。
でもね、心が叫ぶの。
「そんな生活いつまで続けるの?」
「終わりがあるものなの?」
心は本当は私がしたいことを叫んでいる。
「こうありたい私」を叫んでる。
それが
絶え間無く叫んで 私を叫んで
ということなのかな。
本当は怖いだけなのです。
不自由じゃなくなるのが。
不自由じゃないってことは、何かに縛られていることであり、一見よろしくないことのように思うけれど、実はそれさえこなしていれば生活できることでもあります。
「自由」と「不自由」
例えば、子供って学校が嫌いだと思います。
でも大人って学校生活にみんな戻りたいものです。
不思議なもので、学校で不自由を感じていたときは気付かなかったけれど、あの教室で授業をただ受けてさえいれば許されていたあの境遇に、大人はまた戻りたくなる。
それは「不自由」を求めていることになります。
そう、「自由」って実は難しいんだ。
自分で考えて、自分で決めて、自分で責任を取らなくてはいけないから。
いっそ誰かに決めてほしいと考える人は少なくないでしょう。
2番の歌詞解釈
でも、その道を選んだのは自分自身。
でも、どこか「選ばされた」と思いたい。
そうしてどこかに言い訳できる逃げ道を作りたがる。
一歩も動いちゃいない気がするけれど、いつの間にかこんなところまで来てしまった。
この感覚は、大人になればなるほど強くあることでしょう。
あなたを乗せた飛行機が、もはや私には行けない場所まで、せめて晴れやかに飛行してほしい。
でも心はまた言うの。
「どこまでごまかすの?」
「そんなこと言って、一体誰に許されたいの?」
目を閉じればまた瞼の裏に「自由」と戦う自分が映る。
本当はそんな生活に憧れていて、性懲りもなく何度も描いてしまうんだ。
求めない筈がない。
重ねない筈がない。
望まない筈がない。
だって生きているから。
生きているなら。
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3番の歌詞解釈
でも実は自分が無理と勝手に思っているだけで、本当はこんなにも自由。
残酷な程自由。
全部自分で決めて、自分の手と足で決めて生きてゆかねばならない。
「あなた」はそんな心を受け入れ続け、選ぶことができたんだね。
願わくば「私」も「あなた」が向かう先へ行きたいな。
みたいな感じ(ざっくり)。
前向きな曲として捉えるために
最後はもしくは、「あなた」が「私」、いや、「私」が「あなた」になった、と解釈もできるかもしれませんね。
「私」が自由と戦うことを決意し、行きたい場所が「あなた」と同じになった。
「一緒に行こう」
そんな前向きな曲として終わると解釈した方が、心は少し晴れやかでしょうか。
『ロストマン』もそんな曲ですしね、うん、そういうことにしておきましょう。
君は「自由」かい?
完