高校生の頃の自分の文章を読んで思ったこと、気付いたこと、思い出したこと
2020/05/20
思ったことをそのまま書く。
昔書いていたブログを思い付きで眺めていて気付いたことなのですが、ぼくは昔、思ったことをそのまま文章にして書いていたようでした。
相手にそれが伝わるかどうかは二の次で、自分が書きたいと思ったことをただひたすら書いている。
理解されなかったとしてもそれはそれで、理解してもらえればきっと面白いはずですよと、そんなような思いを感じます。
もしかしたら何のレスポンスもなければ方向性は変わっていたのかもしれませんが、ありがたくも、ぼくの愛すべき仲間達が定期的にコメントを残してくれているようでした。
SNSがなかったあの頃、ぼくにとってブログはまさにSNSだったわけですなーなどと、過去に思い浸るぼくの顔はすっかりおっさんになってしまったものです。
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しかし前回の最後にもネタにした髪の毛に関する話なのですが、ぼくはどうやら高校3年生のときから友達に
「戦闘民族」
とバカにされているようでした。
もちろん本気でバカにしているわけではなく(多分)、仲間内の冗談なんですが(多分)、戦闘民族とは要するにマンガ『ドラゴンボール』に出てくる戦闘民族『サイヤ人』のことであり、その民族の王子である『ベジータ』のことを指しているようです。
ベジータがどんなキャラか知っている人は容易に想像が付くと思いますが、ぼくの頭はつまりMっぱげなのであります。
そんな若くしてMっぱげに悩まされるとはなんと悲しき高校生なのだろうと思うと同時に、ならば昔も今も変わらないのではないか?という一抹の希望も見えてくるものであります。
というのも、昔っからMっぱげなんだったら、今のこのMっぱげは別段広がっているわけではないのかもしれません。
そしたらぼくは一生Mっぱげのままおじいさんになれる可能性すらあるのかもしれません。
もとより毛根が少ないのであれば、毛根に使うエネルギー量も必然的に少ないはずです。
否、エネルギーを割く分が少ないのであれば、一本一本へのエネルギー量が高い可能性があります。
ともすると、ワンチャンブルックあるっしょ(軽
死してなお、骨身になろうともぼくの頭には毛が生えていて、綺麗なM字を描いていることと思います。
素敵なことですね。
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戻しましょう。
昔の自分の文章を読んでみて特に思ったことは、非常に楽しそうである、ということでした。
そりゃあ読み手のことを一切考えていないと言っても過言ではないほどの支離滅裂な文章を、自分の思ったとおりにひたすら書く行為は、実にマスターベーション的であり、それは気持ちが良くて当たり前です。
しかもコメントをいただけて、コミュニケーションが取れる。
時には知らない人からもコメントがあったりして、ぼくはまた嬉しくなって楽しくなって、より一層面白おかしい物を求めて、意味不明な文章を書くのです。
意味不明であることはあまりよろしくないことであると思いますが、しかしながら、楽しくあることは大事だなーなどと思うのでした。
正直なことを言うと、ぼくはここんところもうずっと、昔のように楽しげに文章を書いてはいません。
「何を書けば意味があるだろうか?」
「どんな風に書けば伝わるだろうか?」
「この話題は知ってるだろうか?」
「こういう形式で書くべきではないだろうか」
具体的な例でいえば、
「映画の感想はこう書くべきではないだろうか」
などと、少し賢くなったばかりに、そんなようなことばかりを考えてしまいます。
もちろん、場面によってそれは非常に大事な考え方だと思いますが、こういうブログではもっともっとライトで良い。
もっともっとポンポンとコンスタントに書いていきたい。
もっともっと書きたいことを純粋に書いていきたい。
ひいては、楽しく文章を書きたい。
そんなことを、高校生の頃の自分の文章を読んで思ったのでした。
だいぶ恥ずかしいことも書いていたけれど、楽しそうで何よりでした。
完