言葉・文章の内なる面白さ

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言葉を残すこと、文章を残すことはとても不思議なことに感じます。

今ぼくが書いてる文章は、何年後か経っても、そのままずっと残っているだろうからです。

残っているだろうということは、そのときに誰かが読む可能性があるからです。

 

今ここで書いていることが、何年後かに到達する。

 

今ここにありながら、未来を見て、過去を知る。

そんな営みのようにも感じられて、ともすると、より一層文章というのは面白いなーなどと思うばかりです。

 

図書館の面白さ

昔書いていたブログで、

「図書館は偉人達の声が保管されている」

という風に表現したことがありました。

この表現は自分で言って気に入ってるので(爆)、改めて何かそれについて書きたいと思います。

 

なんてことはない、誰も知らないぼくの言葉なんかが残っても、世界は何一つ変わらないと思いますが、本として残された言葉というのは、どこかで誰かが感銘を受けて、人生が何かしらどこかしら変わるものだと思います。

1冊も売れない本なんていうものはなく、読んだ人の一人にも響かないという本もまたないでしょう。

 

そんな本の全てを置いているわけではないけれど、選りすぐったものが置かれている図書館というのは、さしずめ知の集合地。

さかのぼれば紀元前何百年の哲学者の言葉もあり、途中の言葉もあれば、今の言葉もある。

古今東西という言葉のとおり、ありとあらゆる時代と場所で書かれた、読まれたお話が保管されています。

 

そんな本を読むことを「対話」と言ったりもすると思います。

著者と対話する。

 

だから、ぼく達は2000年以上前の人と対話することができるとも言えて、こんなにロマンチックなことはないでしょう。

本一冊一冊がペチャクチャ喋ってると思えばまた面白く、それをぼくは

「図書館は偉人達の声が保管されている」

と表現したのでした。

 

確かハリー・ポッターか何かでそんな本が実際に出てきたような気がするのですが、うん、あんまり覚えてないので余計なことは言わないでおこう。

 

とにかく、みんな一生懸命喋ってるの。

 

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文章でできるタイムトリップ

ぼくも小学3年生のときに日記を書いていた、という話は何度もしてきたことですが、その日記というのは今もちゃんと保管されています。

多分、毎日分ある。

だから小学3年生のときのぼくが何をして何を見て何を感じて何を書いたのかという記録がちゃんとそこにあるのです。

だからぼくは、小学3年生のときの自分と対話することができるとも言えます。

 

当然、当時は20年以上経って自分が読み返すだろうなどとは思っていなかったわけだけれど、その事実を踏まえながら当時のことを思い出すと、また改めて面白く感じます。

当時のぼくを、ぼくが後ろから覗いているような感覚があるのです。

そんなタイムトリップ感があります。

 

「過去に行くことはできない」

これはぼく自身が強く思っていることですが(未来はいけると思ってるけど)、今の言葉を残すことで少しのトリップ感を味わえるのだとしたら、できるだけ多くの言葉を残したならば、その分多く楽しめるのかもしれませんね。

 

もちろん写真とか映像で残せばいろいろ早いし、客観的に見れて楽しいけれど、内から見ることができるのは文章だけでしょう。

外から見る写真・映像と、内から見る文章。

例えば思い出の旅行の写真と日記がセットであったらば、二重で楽しめるのでしょうね。

 

うーん。

 

もっと書こうっと。

 

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