僕が文章に求めることみたいなこと
2020/08/16
こんばんは。
僕の文章の書き方には大きく分けて2つのパターンがあります。
1つが、1つ何かテーマ的なものを思い付いたらそのまま書き出し、考えながら文章を書いていくパターン。
もう1つが、考え事をしていて、ある程度考えがまとまったらそれを文章化するパターンです。
作曲で例えるならば、前者はギターを手にしながらジャンガジャンガ弾き鳴らし、弾きながらフレーズをアドリブ的に作っていく感じ。
後者はある程度頭の中で「こんな感じの曲」というイメージが出来上がっていて、それを形にしていく感じ。
このブログを書いて行くにあたってどっちの方がいいだろうか?ということは実はまとまっていなくて、この文章自体も実は前者だったりします。
そういった意味ではまだまだ手探り状態のブログです。
どちらにもいい面があるので、まあどっちもあるといいのかもしれません。
例えば前者ならば、勢いも出るし、熱も帯びる。
あまり読み手がそれを感じることはないかもしれませんが、書き手としては書いてて楽しいのは前者だったりします。
書けば書くほどどんどん考えが進むと言いますか、さっきまで悩んでいたことが嘘のように悩みが解決されることもままあります。
し、後者だと書き出す前に大変な腰の重たさを感じるのですが、前者はそれがない。
じゃあどうして後者に重たさがあるのかというと、僕の中で考えがほとんどまとまっているからです。
考えがまとまっているということは、僕の中でもうそれについて考えることは済んでいるということですから、それを文章化するということのモチベーションは「読者の為」ということになります。
そういう「読者の為」みたいな感情が沸き起こると、僕がついつい思ってしまうのは「こんなこと書いて誰かの役に立つのかな」みたいな非常にネガティブな感情です。
いわゆるブロガーと呼ばれる人達はそうやって「誰かの為」になる記事を量産して、アクセスを稼いで、広告料だなんだでお金を稼ぐと思うのですが、僕はそういう方向性でブログをやると「でもこんなこと他の人も書いてるしな」とか思っちゃうんです。
だって調べれば出てくるような情報をね、わざわざ僕が書き直す必要もないじゃないか、とか思っちゃうわけです。
僕が書かなくたって誰も困らない。
じゃあ僕にできることは何かって言ったら、多分僕なりの哲学を見せることだと思うんです。
だって、哲学は誰とも被らない。
哲学はその人の中でしか起こらない。
例えばだけれど、あなたにとって音楽はなんですか?と聞かれたらなんと答えるでしょうか。
人によっては「リズム、メロディー、ハーモニーが揃ったもの」と言うだろうし、ウィキには「音による芸術」だとか「音による時間の表現」と定義されることもある、などと書いてあるし、「クラシック以外音楽じゃない」と言う人もいるでしょう。
あるいは「人生そのもの」みたいな人もいるでしょうし、「単なる空気の振動であり、それ以上も以下もない」という人もいるでしょう。
「NO MUSIC, NO LIFE」なんて言葉もあれば、「僕、音楽一切聴かないんですよ」という人もいる(実際に出会ったことがある)。
音楽とは何か、と問われたとき、その定義を語るのはウィキペディアにでも任せればいいんだけれど、「あなたにとって音楽とは」と問われたとき、当たり前ですがそこに正解はないわけです。
今日はこう思ったけれど、明日にはまた違うように思うかもしれない。
そうやって自分の中の何かに対する哲学っていうのは形を変えていくものだと思います。
「哲学」という表現にピンと来ない場合は、「考え方」みたいな言葉で捉えてもらってかまいません。
要するに「それについてどう思ってるか」みたいな話です。
愛とは何か?とか、家族とは何か?みたいな話にも、正解はないでしょう。
心だとか、夢だとか、感情だとか。
僕達は生きながら学び、考えて、自分なりの哲学を養っていく。
「そのために勉強をするんだろ?そんなこともわかんないの?」みたいなことを言ったのはビートたけしさんですが、本当にそうだよなと思うばかりです。
あれ?
話が滅茶苦茶ズレてる(笑)。
まあいいや、この生じたズレもアドリブ的で、前者的で良しとしましょう。
前者であろうと後者であろうと、とにかくズレた今ここで言いたいことは
「知識やら情報をそのまま書きたいわけではない」
ということです。
これは自分に対する決意の改めでもあります。
僕が「こんなこと書いて意味あるんかいな」と自分で思うことは、多分本当に意味のないことだと思います。
そう思うってことはきっともう誰かが書いてるような情報・知識で留まってるものなのでしょう。
「じゃあ逆にその哲学とやらがなんの役に立つのさ!意味あるんかいな」って話にもなりますが、これはかなり願望的な考えですが、きっと読み物として面白いはずだ、と信じています(笑)。
もちろん人によっては全然面白くない頓珍漢なものになるとは思いますが、そうだとしたらきっと誰かにとっては滅茶苦茶面白かったりするはずだ、と信じています。
だって、他の人の哲学って面白くない?
前に「立ち振る舞いの美学」的な本を読んだことがあったのですが、生活様式やら文化によって「美」とされる立ち振る舞いは違っている、みたいなことが書いてあってとても興味深く読みました。
要するに文化によって「美」が違うということは、人によって感じ方が違うということですから、それはとても面白いことです。
僕達日本人にとっての常識が、他国では非常識だったりもするし、僕達にとっての「美」が、向こうでは「醜」かもしれない。
そういう感覚の違いと言いますか、意見の相違と言いますか、「ああこういう風に思う人もいるのか」っていう感覚だったり、視野の広がりを感じることは単純に面白いものだと僕は思っています。
そういう経験を踏まえて、成長し、また自分なりの哲学が養われていく。
そういう繰り返しだと思うんです、生きるって、なんつって。
だから一般的に大人は深みが出るし、何かを追求・追究してる人(あるいはした人)ほど、人間としての器の大きさみたいなものを感じます。
そういう追求・追究をする者と、そうではない者に差が出るのだとしたら、僕はもちろんツイキュー側に立ちたい。
その営みの一つがこうして文章を書くことだし、それを誰かが読んだときにまたその誰かが何かを思い感じ、人生に生かしてくれたらば、書き手としてはこんなに嬉しいことはない。
そもそもどっち道、文章に「意味」みたいなものを考えても仕方がありません。
だってそれを決めるのは自分ではなく相手だから。
だから僕の思う「意味のありそうなこと」をいくらしてみたって、それが本質的に意味があるかはわからない。
でも自分で信じられないものに手を出すくらいなら、せめて自分だけでも意味ありげに思えるものに手を出すよ!って話です。
だから僕は僕の思う「意味」を信じて書けばいい。
今はそんな風に思っております。
というアドリブ文章でした。
アドリブの問題点は「大体話が長くなる」というところでしょうか。
それもまた良し、としましょう。
ではでは。
完