成長する寂しさと面白さとその尺度(テキトー)

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眠いんだけれど何か書いてみる。

リハビリ的に書いてみる。

感覚を忘れないように書いてみる。

書いてみると書いてみる。

書いてみるというゲシュタルトが崩壊してきた。

 

そもそもゲシュタルトってなんなんでしょうか。

なんとなく漠然とした言葉のイメージはあるけれど、実際の詳しい言葉の意味はわからなかったりします。

昔はそういう言葉もノリで使ったりしていたけれど、なまじ頭が良くなるとそうすることに対して抵抗感が生まれてしまいます。

それが何かしらの足かせになって、腰が重たくなってしまう面はあったかもしれないなーなどと思います。

 

良く言えば成長だけれど、見方によっては退化でしょうか。

退化という表現が適切かはわからないけれど、要するに「勢い」という若さゆえの能力が失われたとも言えます。

 

そういえば子供はよく弾むボールを蹴り遊んでるだけで楽しいものですが、大人になるにつれて面白くなくなってしまいます。

1で楽しめたのが、2や3を知ると1は楽しめなくなってしまう。

これが5とか10とかになってくると、どんどん自分の中でのハードルが上がり、数値の低い物に対して高揚感がなくなってしまいます。

もちろんわかりやすく数値化して説明しているけれど、全ての事柄が数値ができるとは毛ほども思っておりません。

 

昔何かで「記憶を全部消して小説を読み直したい」みたいなことを聞いたことがあったのですが、その気持ちがよくわかります。

成長して、造詣が深くなって、大人だからこそ楽しめるものもあれど、無知ゆえになんでも楽しめたあの頃、なんでも刺激的だったあのころ。

やっぱりその頃にはその頃にしかない楽しみがあったよなーなどなどと思います。

 

僕は特にファーストコンタクト、ないしファーストインパクトを重視していて、初体験に重きを置いています。

映画も予告は観ないし、ゲームも紹介映像は極力見ません。

そうやって、なんにも知らない状態でそれに触れて、少しの情報にも驚きと感動を得たいという風に思っているので、子供のころわけもわからず不用意に触れてしまった数々の作品に、大人になった今、記憶をなくして観てみたい。

例えば『ターミネーター2』を、何も知らない大人として観てみたい。

そんな風に思います。

 

だから、数を知れば知るほど造詣は深くなって、ある種「わかった気」にはなるけれど、楽しめる領域はどんどんと狭くなっていくのかもしれません。

 

少し寂しい。

 

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でも一方で、それで良いとも思う自分もいます。

ダブルスタンダードだけれど、そうも思う。

軽い物を楽しめなくなる寂しさはあるけれど、重い物を楽しめる喜びもある。

かつてはちんぷんかんぷんだった作品が、ああなんて素晴らしい作品なんだろうと思えたら、それは確実に成長です。

 

領域は狭くなれど、深みは出る。

味わい深くなる。

それが大人になるってことなんですかね。

 

全部楽しめたら一番ですが、それはそれで本当に物考えてんのか?という疑問も生じるような気がするので、そこまで頑張る必要はないようにも思います。

もちろんどちらかを否定するということではありません。

高尚な物を称える余り、稚拙な物を貶すのは愚かしいことのように思います。

それぞれに段階があって、それこそ子供には子供なりに楽しめる物、あるいは初心者には初心者なりにとかいろいろな言い方はあると思いますが、自分がどのレベルにいるのかによって楽しめることって違うんだと思います。

でもそれは客観的な評価に繋がるべきことではないでしょうから、全部を楽しむ必要もないんだろうなーと思うわけです。

 

きっとこれで楽しめる人もいるでしょうから、これはこれでいいと思う、でも自分はもうこういうのでは楽しめない。

そんなようなスタンスで良いのかもしれません。

 

その尺度さえも個人個人が持っているものだから、誰にも定義はできない。

どこまで行ってもそうであるならば、どこまで行ったところで物を語ればよいのでしょうか。

果てがないからこそ難しい問題のように思います。

 

にゃむ。

 

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