人生の意味は主観的で構わない

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僕達生き物はいずれ死に行きます。

ともすると何をするにも意味がないような気もするし、じゃあ意味のある行いを求める必要もないような気もしてきます。

 

ゲームをすることより本を読むことの方が果たして本当に良いことであるのかどうか。

SNSに興じることより運動することの方が果たして本当に良いことであるのかどうか。

人によっては良いことでも、人によっては悪いことだったりもする。

そうやって考えると、客観的な正しさなんてものはないのだから、自分なりの人生の答えを見付けなければならないと思います。

 

意味ってなんでしょう。

生きるってなんでしょう。

幸福ってなんでしょう。

 

そんなようなことを無学ながら考えてきた長き日々だったように思うのですが、ひとまず「これだけは押さえておくべきだよな」という結論に至ったことがあるので、そのことについて少しだけお話します。

 

何かと言うと「能動的に生きるべきである」ということです。

「生きる」と言うとちょっと大袈裟でしょうか。

能動的に「時間を使う」という方がニュアンスとしては正しいような気がします。

 

要するに、何をするにも自分の意思を反映させよう、という発想です。

 

例えばだけれど、僕はよくYouTubeを見ます。

自分の意思で「前に見たあの動画見たいな」と思うこともあるし、「こういう動画ないかな」と新たに探して見ることもあります。

これは能動的な時間の使い方だと思います。

 

だけれども、トップページや動画再生中にリコメンド(オススメ)される動画をついつい見ることもあります。

「この動画で終わりにしよう」とさっき思ったはずなのに、ついつい見ることがあります。

というか結構見ちゃいます。

これって僕は、能動的な時間の使い方だとは思わないんですね。

どちらかというと受動的だと思うんです。

 

「動画を見る」っていう行為としては同じはずなのに、見るメンタリティによって時間の濃密さって全然違うように僕は感じています。

能動的に動画を探して見た1時間って濃密だけれど、受動的に動画を見てしまった1時間って体感としてスッカスカです。

もちろん「今日はオススメ動画を潜りまくるぞ!」っていうメンタリティだったら、オススメ動画を見るのも能動的だと思うけれど、そうではない場合は受動的です。

 

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あるいは、ついつい隙間時間があるとSNSを見てしまう。

これも受動的のような気がします。

「手に取って見る」という意味では能動的に感じられるけれど、「見なきゃ気が済まない」みたいな気持ちで半ば見させられてる状態は受動的です。

だから、僕にとってのSNSは受動的です。

 

アプリゲームも大半が受動的だと思います。

ついつい起動させてしまうものだと思います。

でも家に帰って据え置きゲームの電源を付けて「さあやるぞ!」ってメンタリティでやるゲームはとても能動的です。

 

要するに、「今からこれをやるぞ」っていう意思があるかどうかで、その時間の体感的な濃密さって変わってくると思うんです。

そして実際得られるものも違ってくると思うんです。

 

勉強だってそうじゃないですか。

やらされた勉強は試験までは覚えてても終わったらさっさと忘れるのに対して、自分の興味に従って勉強したことって試験があろうがなかろうが関係なく覚えているものだと思います。

 

「なんかやっちゃう」「なんか見ちゃう」ってことを極力減らして、「これをやろう」「これを見よう」っていう意思を持って過ごす。

冒頭で「客観的な正しさなんてない」みたいなことを書きましたが、そういう主観的な意思があるかどうかが大事なような気がします。

生きることに客観的な意味がないのなら、主観的に見付けていくしかないと思います。

 

内容はひとまず二の次です。

ゲームでも読書でも構わないから、とにかく自分で意思を持って決める。

繰り返したら、きっと自分に合った何かが見付かると思います。

 

生かされてるのではなく、生きてゆきたい。

そんな風に僕は思います。

 

ノシ

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