楽しいってなんだろう?
2020/05/19
今日は友達達と遊んできました。
遊ぶことに楽しみを感じるのですが、ふと楽しいというのはどういう感情なのだろうか、ということを考えます。
心が躍るだとかなんだとか、いろいろな表現があると思いますが、なんで楽しいと思うのだろう。
当たり前のことのようで、よくよく考えると不思議なことです。
ゲームをするのが楽しいのはなんでだろう。
心理学的に、あるいは脳科学的に証明されていることはいくつもあれど、何故その喜びを感じる部位が喜びを感じるのだろうか。
きっと僕達人間がサルの時代から遺伝子に残っている「獲物をゲットしたときに喜びを感じる」という点は一つあるのでしょう。
だから宝箱を開けて何かレアなものが入っていると嬉しい。
ならばテトリスみたいなゲームはどうだろう。
ブロックをただひたすらに積み上げて、ひたすら消すあの作業が、どうして楽しいと思えるのだろうか。
もちろんそれを楽しくないと思う人も多いと思いますが、一定数面白いと感じるからこそ、感じたからこそ今もこうして新しい媒体が出るたびにテトリスは登場するし、こうして根強く人気があるのだと思います。
じゃあ人とコミュニケーションを取ることが楽しいと感じるのはどうしてだろう。
テトリスと同じように人とのコミュニケーションが超苦手な陰キャが極まったコミュ障の人もいるでしょうけれど、一般的には友達と遊ぶことは楽しいと感じられているものだと思います。
僕もどちらかというとコミュ障で、友達といても黙ってしまうことがよくあるのですが、基本的には遊んでいるその時間は楽しいと思えます。
遊べて楽しい。
果たして「遊び」に楽しさが含まれているのか、それとも遊ぶ「相手」に楽しさが含まれているのか。
恐らくはどちらもあるのだろうけれど、きっと後者の方が重要なのでしょう。
仕事が長続きするかどうかは、仕事の内容よりも職場環境が重要だと言います。
やることが単調であり楽しみが感じられなかったとしても、そこにいる人とのコミュニケーションが楽しいものであるならば、大体仕事は続きます。
だから僕も友達と遊ぶにしたって、大体のことは何をしようが楽しいと思える。
じゃあ人とのコミュニケーションが楽しいのはなんでだろう。
きっと人間は一人では生きてゆかれない生き物だから、一人で生きていける人の遺伝子は淘汰されたのだと思います。
例えば原始時代に一人好きがいたとしても、その一人っ子はきっと遅かれ早かれ敵にやられてしまったのだろうから、生き残ったのは人と群れた方であって、その遺伝子が延々と引き継がれてきたのだと思います。
もちろん程度の差はあるのだから、その重要性をどこまで感じるかは人それぞれでしょうけれど、少なくとも僕の遺伝子はそれを感じている。
ともすると、コミュニケーションにしても、ゲームの宝箱ないしガチャみたいなシステムに喜びを感じるのは、人間に備わった生存本能から来るものだということでしょうか。
つまり僕達は生きたいんだな。
生きてる意味ってなんだろう、だなんて考えたこともあったけれど、本能的には生きることを欲している。
じゃあ喜びを感じる度に「ああ今生きたいって思ってるな」って思ってもいいのでしょう。
その喜びが希薄なものになってしまったときは黄色信号。
なるほど。
書きながらにして、楽しいってことと喜びってことを大事にしようと思いました。
完