『トイ・ストーリー4』について改めて考えてみた結果、真理に近付く
2020/11/01
前に『トイ・ストーリー4』に関する思いの丈をぶちまけたのですが、改めて思ったことがあるので書きとめようと思います。
まだ映画を観てない人は、がっつりネタバレを含みますので読まないようにしてくださいね。
まず、前に書いた思いの丈的な文章は、せっかくだからと某レビューサイトに投稿してきました。
で、このブログにそれと同じ文章が載っているのはなんだか気が引けるなーと思い、こっちのは削除した次第であります。
サラッと何を書いたかを書きますと、とりあえずボニーが酷いということ。
あとはウッディがかわいそうということと、キャラ変が酷いってことと、今までの主張とかけ離れ過ぎてて受け付けないということ。
でも、レビューサイトに投稿するにあたって、改めて深く吟味してみて、更に他の方のレビューもたくさん読んでみて、なるほどなと。
確かに感情的には受け入れられない自分がいますが、論理的に考えてみるとちゃんと筋は通ってる内容であったかもしれないなーと思うようになりました。
まず、ボーが冒頭で
「子供はいつかおもちゃに飽きる、その順番が自分に回ってきただけ」
みたいなことを言っていました。
それが今回ウッディに来たということなのでしょうね(それでも納得はできないけど)。
で、それでもボニーのことを思うウッディは、彼女が悲しまないように一生懸命フォーキーを連れ戻そうとします。
ゴミは必要としているのに、自分は必要じゃない、というかどんどん心身ともにボロボロになっていって、自分がゴミのようになっていく。
そんな対比があるのかなと思いました。
でもウッディはあくまでもボニーのおもちゃだから、ボニーにこだわる。
ボーの
「何をそんなにこだわってるのか」
みたいな問いに、彼は
「忠誠心だ」
と言います。
おもちゃとしての忠誠心、ですかね。
彼はこれまでどおり、主のおもちゃとしての役目を果たそうとする。
けれども、ボーに別の生き方を教えてもらう。
そうか、おもちゃにもこんな生き方があるんだ。
そんなような発想から、そしてバズの「彼女(ボニー)は大丈夫だ」という言葉を貰って、自分なりの生き方をしようと決断した、ということなのでしょうね。
そして最後にバズは言います、彼はもう迷子じゃない。
なるほど、確かに1本の映画としてはちゃんとまとまりがあるし、評価する人がいるのも頷けるなーと思いました。
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でもね。
だけれどもね。
僕はどこまでいっても「シリーズ」ということをこだわりたい。
今まで通してきたテーマを崩してほしくない。
その瞬間、シリーズ全体のバランスが崩れてしまう可能性すらある。
例えば、今回のようにおもちゃが主体性を持って生きていくだとか、おもちゃが人間社会に深く干渉してくるとなると、もういいからお前等人間の前で喋って友達になっちまえよ!って思えてくるんです。
これまで、おもちゃはあくまでもおもちゃだから、最低限おもちゃとしてのあり方を守ってきました。
特に『1』は秀逸で、「ママ、バズどこに行ったか知らない?」「ウッディが消えちゃった!」みたいなシーンは、そうそう、そういうことあるある、という気がしてきます。
というのも、おもちゃに限らずなんでもですが、確かにここに置いたと思ったのにどこかへ消えてしまった!って経験誰でもあると思うんです。
そして最後、バズとウッディはアンディの車に侵入し、アンディは2人を発見します。
そして言います。
「ママ!ウッディとバズあった!」
そしてママは言います。
「どこにあったの?」
「車にあった!」
「ほらね?ママの言ったとおりでしょ?」
あー
あるある。
ふとした時になくなり、ふとした時に見付かる。
そういう「あるある」を本当に上手に取り込み、あたかも本当におもちゃが生きているのではないか?と思わせるようなギリギリのラインを保っていました。
それがシリーズを重ねるごとにどんどん曖昧になっていき、今回の『4』でもうほぼ崩壊。
ここまで来るともはや人間の前で動かない理由が見付からない。
もう動いちゃって、喋っちゃって、友達になっちゃえば、そもそもアンディに遊んでもらえなくなるとかそんなことを考える必要もなかったんじゃないの?という話になってきます。
だから、僕はおもちゃはおもちゃのままであってほしかった。
これまでの世界観すら崩れる可能性がある。
1本の映画としてどれだけ優れていようとも、大袈裟に言えば、シリーズとしてはやってはいけないことをやってしまった、と個人的には思う。
あと、おもちゃはおもちゃであれ!という主張に対して
「それは奴隷は奴隷でいろ!ということと一緒では?」
というような意見を見ましたが、これは全然違う。
おもちゃは生き物としておもちゃなんだもの。
奴隷は生き物として奴隷なのではない。
ましてや奴隷になりたくて奴隷になってる人なんていない。
でもおもちゃはおもちゃとして生まれて、おもちゃとして生きることにこだわっている。
だから人の前で動かないんでしょう。
なのに主体性を持って生きていくって、ちょっと意味がわからない。
前の思いの丈文章で
「テーマ・メッセージそのものは否定しないけど、トイ・ストーリーでやるのは無理がある」
と書いたのですが、つまりはそういうことでした。
もうこれは、おもちゃ達が動き出して、酷い遊び方をする子供達に対して戦争を仕掛けることになってもおかしくない流れになってきましたよ。
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とまあ理解はしても結局は受け入れられない、ということなんですが(笑)、でも今回ほど人の感性というのは本当に違う物だなーと感じたことはありません。
それくらい僕にとってはありえない内容だと感じたけれど、本当に素晴らしい出来であるという人もいる。
感性もそうだし、シリーズに対するこだわり方というのもあるでしょう。
全然整合性を気にしない人もいるし、僕みたいに強いこだわりを持っている人もいる。
前者の人は後者の人に「自分がこうあってほしいということを押し付け過ぎ」と言います。
もちろん僕達後者はそんなつもりはなく、純粋に「シリーズとしてこうあるべきでは?」という気持ちが普通にあるだけなのです。
両者の思いは平行線で、一生分かり合えることはないのでしょう。
多種多様で面白いですね。
だから、僕は僕の主張に自信を持ちたい。
僕は、どうしても反対意見に対してネガティブな感情を抱きがちですが、どっち道わかりあうことができないのであれば、僕は僕側の主張に自信を持ってもいいだろう、と。
だから、そっち側の人も納得する必要はないけれど、そういう意見があるということを理解はしてほしい。
こういう人もいればそういう人もいる、それで良いではないか。
それはつまり自分の意見を正当化するための言い訳だったりするのだけれど、真理に一つ近付いたような気がする。
完