自転車通学に生きてる実感を味わうように
僕は高校を卒業したあと、専門学校に通い始めました。
その学校は住まいから14kmくらいのところにあり、僕は自転車でその学校に通っていました。
時間にすると1時間ちょいです。
自転車を1時間漕ぐのって実際疲れます。
実際疲れるにも関わらずどうして僕は自転車にこだわったのかと言うと、公共交通機関に極力関わりたくなかったからです。
それは知らない人に近付くのが嫌だったというのもあるし、お金が掛かるのが嫌だったというのもあるし、時間にとらわれるのが嫌だったというのもあります。
そういう様々なストレスを感じながら登校するくらいだったら、疲れたっていいから、自分なりのペースで学校に向かう方が精神的に楽だろうと当時の僕は思っていたのです。
振り返ってみると、無茶したなと思います。
だって、時には重たいエレキギターを背負ったり、かごにはエフェクターボードをぶち込んだりもしていましたから、相当な重さを抱えながら必死こいて漕いでいました(おかげで太ももが滅茶苦茶太かったです)。
多分もうできないと思います。
それは肉体的な意味ではなく、精神的な意味でです。
だってやっぱりきつかったもの。
雨降るし、雪降るし、風吹くし。
暑いし、寒いし。
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でもトータル的には、あれで良かったなと思っています。
どういう面でそう感じているのかと言うと、1時間も自転車を漕ぐ距離ですから、それはなかなかの距離です。
当然そのなかなかの距離の間に様々な景色が広がっているので、自然やら町並みが好きな僕には「通学」というのは遊びの一環みたいなものだったのです。
もちろん「通学」と言っても行くときは学校に直行するので寄り道はしないですけれども、放課後に時間の制限はございません。
まっすぐ家には帰らずに、全然知らない道を行ってみる。
そうすると知らない町に出ますから、その町を探検してみる。
その町からまた道が伸びている。
その道の先にもまた僕の知らない町がある。
そうやって僕は仙台の町を走り回りました。
あれは僕にとっての一つの青春です。
基本的に一人だったので、誰かとその思いを共有することはあまりなかったけれど、それでもその自由性に僕は喜びを感じていたのでした。
自分の興味のままにハンドルを切り、一人で物思いにふける。
知らない道の先で知ってる道に出たりして、「ここに繋がってたんだ!」なんて一人で感動したりもしました。
視覚的な発見があり、聴覚的にその町なりの雰囲気を感じ、嗅覚的に季節感を覚え、触覚的に空気を切ってゆくのを感じ取る。
そういう様々な感覚的なものにたくさん触れながら自分の興味に従うのって、きっと車移動では味わえない体験です。
通学に自転車を1時間も漕いで随分無茶したな、とも確かに思うけれど、あの経験があったからこそ今の僕があるような気がします。
そしてあの感覚を大事にしたいなって思います。
「生きてる」って実感が、本能的に呼び覚まされる。
そんなような体験であると言っても過言ではないのではないでしょうか。
察するに、アウトドアの魅力って、そういう面もあるんでしょうね。
僕はどちらかと言うとインドア派なので、昔を思い出してもう少しお外に出るようにしたいと思います。
ノシ