僕達が人間関係に悩む理由と解消に至る期待
2020/08/24
こんばんは。
いろいろなことを学んで、いろいろなことを考えると、いろいろなことが思い付くようになってきます。
そういった思い付きの一つに「こうしたら相手の為になるんじゃないか」というものがあります。
要するに「誰かの為に何かしたい」っていう気持ちが現れて、それを実際に試みるようになるわけです。
しめしめ、と。
これできっと彼は喜んでくれるだろうなんて、一人思いを馳せたりします。
けれども、今度は逆に相手にもそれを求めてしまう自分がいることに気が付きます。
「え?普通ここまでやったらこうするよね?」
「え?周りの人のことを考えたらこうはしないよね?」
嘆かわしいことではありますが、これが僕の正直な現状です。
人の為に良かれと思ってやれることは確かに増えたけれど、悲しいかな、それを周りにも求めてしまう本心があることに気が付いたのです。
ともすると、あれ?何も考えてない方がある意味幸せかもしれないな、なんて思ったりもします。
というのも、誰かの為に何もしない人がいたとしたら、その人は当然、周りにもそれを求めようとはしないと思うんです。
仮に自分が優しくしない人であったらば、周りに優しくされたいとも思わないと思うんです。
そういった意味では、何かをしてもらいたいっていう願望が弱いんだろうから、ある意味幸せなのかもしれない、なんて。
でもそれでは少し寂しい。
人間関係という意味で、それは少し希薄のように思う。
あるいは「常識」なんて言葉もあります。
「マナー」なんて言葉もあります。
「ルール」なんて言葉もあります。
確かにそれらはあって然るべきものだと思いますが、僕達はそういったものを守ろうとすればするほどに、それを周りに強いてしまう傾向にあるように思います。
それはあって然るべきだが、それが足枷になることもある。
守りたいものがあるが、その守りたいものに足を引っ張られることもある。
気が付くと、そんなジレンマに苛まれます。
そのジレンマのはっきりとした解消法はまだ僕には思い付かないけれど、もしかしたら自分なりで構わないから自分という存在をしっかり確立させることができたら解消されるかもしれないな、という風には期待しています。
というのも、「この社会においてどうすべきか」という発想ではなく、「自分は何を重んじているか」という発想ならば、そんなに周りのことは気にならなくなるような気がするのです。
「みんなこうしてるからこう」でもないし、「常識的に考えてこうだからこう」でもない。
「僕はこうした方が良いと思うからこう」みたいな発想。
もうちょっと言うと、「僕がこうしたいからこう」みたいな発想。
その「こうしたい」が誰かに優しくすることであるならば、周りにはそれを求めない。
僕が優しくしたいと思ったから優しくしただけなんだ、で終われると思うのです。
そう期待しているのです。
それが「一般的にこうすることが優しいとされることだよね」という発想で優しくしていたのでは、周りにもその優しさを求めてしまう。
そうではなくて、「僕がただ優しくしたいだけなんだ」で終われる境地があるのだとしたら、僕はそこに行ってみたい。
じゃあどうしたら行けるのかと言ったら、きっと自分なりの価値観だとか倫理観だとか世界観だとか、そういったものをしっかり確立させることが大事なのだと思います。
それには「よく動き、よく学び、よく遊び、よく食べて、よく休む」という亀仙流の教えが今一番しっくり来ます。
自分なりの人生を一生懸命生きていれば、それが個性だろう、と。
その個性こそが、自分らしさであり、自分という確立に繋がるのではないでしょうか。
よく動いていますか。
よく学んでいますか。
よく遊んでいますか。
よく食べていますか。
そして、よく休んでいますか。
人生の様々な経験を含んで考えた結果の答えが、他でもない自分なりの選択というやつなのでしょう。
知識じゃない、自分が導いた答えです。
きっとそれは、どれだけ人工知能が進化しても辿り着けない、僕達人間だけが至れる境地です。
そんな境地に僕なんかが至れるでしょうか。
至りたいなー。
完