健康の本を読んで思った、正解と不正解について(これからの時代の考え方)

健康の本を読んで思った、正解と不正解について(これからの時代の考え方)

今日もちょっと本屋さんに行って、健康の本をパラパラと読んでいたのですが、改めて思ったことを書きます。

ずっと思ってることだけど、もうこれはやっぱりそういうことなんだ、と確信を持った話です。

 

何かというと、何をしたら健康かなんて人それぞれ違う、ということです。

というのも、あれが健康にいい、これが健康に悪い、とかっていう話っていくらでもあると思います。

いくらでもあるし、いくらでも反対論があると思います。

コーヒーは体に良いと言う人もいれば、悪いと言う人もいる、みたいな。

 

昨日まで良しとされていたことが、新しい本では悪しとされている、なんてことは日常茶飯事です。

そしてぼく達一般ピーポーは、その良し悪しの判断ができない。

 

だし、仮に例えば

「コーヒーを100人の人に飲んでもらったところ90人に良い効果が表れました!」

とかっていう研究があったとして、残りの10人が確実にいるわけです。

 

ともすると、野菜が健康に良い人もいれば、健康に悪い(とまでとは言わずとも良い影響がない)という人だっているはずです。

いわゆる一般常識が全く当てはまらない人もいるはずです(サッカーの元日本代表中田選手など)。

 

だから、どこまで行っても絶対的な健康法が確立されることはないでしょう。

そんな中で自分なりの健康法を探すほかないわけですが、それはそれでまた難しい。

難しいし、時間が掛かるし、ぶっちゃけ面倒臭い(爆)。

 

だから、本当かどうかもわからないような本を読んで、考えて、実践してみて、体調を見て、誰かの力を借りながら自分というものを見つめなおすのが、自分なりの健康法を見付ける道なのかしらと思う今日この頃であります。

 

ぼくとしては、ぼくなりの健康法がある程度は確立されていますが、体感として何も感じない、あるいは気付いていないこともたくさんあるでしょうから、こうやって日々研究してくださってる研究員の方々、そしてその研究結果を基に本を書いてくださる大変頭の良い方々に感謝しながら、力を借りて、知識をアップデートしながらまた自分の健康法をかえりみることが大事なのかなと思います。

 

「この本にこう書いてあるからこうなんだ!」

って解決するのではなく

「この本にはこう書いてあるけど本当かしら?」

と疑ってかかってみる。

もちろんその疑いは決して「嘘だと思え」ということではなく、もしかしたら失礼ですが間違ってる可能性もあるんじゃないしょうか?ということを念頭に置いて考えてもまあ罰は当たらないだろうということです。

 

どんなに尊敬する人のお話であっても、それが間違ってる可能性もある。

受け取った情報を「そうなんだ!」と鵜呑みにせず、一旦食って、噛んで、味を確かめるようによく考える。

 

ぼくは頭の中をキッチンに例える話は何度もしてきましたが、要するに新しい情報は新しい材料です。

新しい材料を手に入れましたから、じゃあまた違う料理が作れるんじゃないか?ということです。

今まではニンジンの情報しかなかったところに、新しくキャベツが届いたら、

「ニンジンは間違いだったんだ!これからの時代はキャベツだよね!」

とニンジンさんを切り捨てるのではなく、どっちも混ぜて調理して、自分なりの料理を作ることが本当の意味でのアップデートかと思います。

 

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例え話が飛躍しますが、昔「騒音おばさん」というのが流行りました。

「引っ越し引っ越し!」

「さっさと引っ越し!」

などと隣人に度々叫んでいたおばさんです。

ヤバTの歌詞にも登場しましたあれです。

ニュースで何度も取り上げられて、一躍有名人。

 

誰もが「とんでもないおばさんがいたもんだ」と思ったものでしたが、ネットで少し調べると

「実はおばさんは良い人」

という説が出てきました。

どんな説かというと、もともと「被害者」とされていた人が先におばさんに何かしらをして、おばさんはそれに対抗してただけなんだ、というものです。

しかも、おばさんはその他の隣人に「いつもご迷惑かけてすみません」と謝っていた、という話もありました。

 

なづほど、ニュースだけを見ると完全に騒音おばさんは悪者ですが、ネットを見るとそうではないような気もしてくる。

 

しかしながら、かと言って、

「ネットで見たんだけど騒音おばさんって本当は良い人らしいよ!」

というのもおかしな話でしょう。

ネットの情報はより信憑性が薄いですから、この段階ではあくまでも

「騒音おばさんは実は良い人っていう説もあるらしいよ」

という噂の域を出ないでしょう。

 

『ハンターハンター』の冨樫大先生も、サボリかサボリじゃないかという議論はよくされますが、どっちかなんてわかんないよ、一般ピーポーには。

本当に病気かもしれないし、本当にサボリかもしれない。

のに、どっちかに考えを振り切ってるのはおかしな話だなーと個人的に思うのです。

 

全部ひっくるめて、鍋にぶち込んで、火に掛けて、よくよく調理をする。

そうして出来上がったものは、確かにどちらかに偏ってるはず。

だけれども、絶対的に信じるものではない。

 

ちなみにぼくなら

「冨樫先生は確かにサボリの可能性もあるけれど、サボる理由がないと思うんだよね」

というのが持論です。

少し「病気」の方に偏っているけれど、「サボリ」の可能性も忘れてはいないという状態。

 

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なんだか話がだいぶ逸れてきたような気がしますが、とにかく、正解・不正解だけで物事を判断してはいけないよ、というお話。

いけないよだなんて言うと偉そうですが、今は情報過多の時代です。

正反対のことが言われているのなんて当たり前で、どっちが正しいんだろう?だなんて右往左往することも多いと思います。

でもどっちも正解じゃないし、どっちも不正解ではない、そんな誰にも答えなんてわからないようなことがたくさんたくさんあります。

 

どっちだろう、じゃなくて、どっちもなんだけれど、自分なりの判断はする。

それが今の時代の生き方なんじゃないかな、と思います。

 

ぼく達、特に日本人は、義務教育で「正解・不正解」の勉強ばかりをさせられているので、どうしても正解を求めがちです(そして不正解と思うことを断絶しようとする)。

 

でももうそんな時代じゃないんでしょうね。

ずっとそうだったのかもしれないけれど、情報過多で、より時代に合わなくなってきてる気がする。

でなきゃこんな「炎上」なんて起きないと思うんです。

あれは「正解」と「不正解」という立場のぶつかり合いだから。

 

本当の議論は調理の出し合い、まさに食戟であるべきなんだけど、ニンジン主義とキャベツ主義の対立みたいになってる場面が多い気がします(ニンジン・キャベツの例えに他意はございません)。

 

そんなことを思う今日この頃です。