「人生」に十分を感じたいなら「一日」に十分を感じよう
2020/11/12
今朝「十分」ということについて考えました。
映画『マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋』の登場人物マゴリアムおじさんのセリフ
「十分生きた」
を聞いてのことでした。
今朝には答えは出なかったし、今日一日考えたのだけれど、「どうしたら人生に十分を感じられるかなんて、やっぱり死ぬ間際になってみないとわかんないことだよな」という元も子もない結論に至りました。
なってみなくちゃわからない。
じゃあその時のことを考えても仕方がない。
だって、その時になってみてからではもう遅いから。
だけれどもね、それはあくまでも「人生」という長いスパンで見た時の話です。
長いスパンだし、ましてや実際に「終わり」を迎えたことがないわけだから、そんな未体験のことなんて想像もできない。
でもこれがじゃあ「一日」だったらどうだろうか?と考えてみました。
つまり、一日を一生と見立ててみるわけです。
「今日命が尽きるとしたら何をするだろうか?」
そんな問いをスティーブ・ジョブスさんは毎朝自分に投げかけた、みたいな逸話もあったりしますが、それに少し近いと思います。
でも僕の言う「一日を一生と見立てる」というのは、ジョブズ氏ほどの差し迫ったものではありません。
僕達は特別な何かでもない限りは、基本的に今日を生きて、明日も生きて、明後日も生きていくと思います。
だから「今日で終わる」なんてことはなくて、その日々は連なっていきます。
それをここでしっかり前提としておきます。
だけれども「今日」という一日は、確かに終わりを迎えます。
そうやって連続していくのを前提としながらも、そのかけがえのない一日を大事に使うとしたら、さあ今日何をしようか?という純粋な問い掛けです(明日死ぬとしたら何をする?だと「豪遊する」とかになっちゃいますからね)。
そこに「十分」というキーワードも持ってきます。
今日を生きるのに、何をしたら「十分」と感じながら眠りにつくことができるでしょうか。
ふかふかのお布団に入りながら、ぬくぬくと「あー今日も十分やったな」ってしみじみ思えるには、今日何をするべきなのでしょうか。
そんな風に、「人生」という長い期間で、しかも未体験なことでは想像も付かなくなってしまいますから、「一日」っていう体験のしたことのある有限の中で想像してみる。
そうすると少しイメージが湧くような気がしたのです。
ちなみに僕は、夏休みの宿題を休みの終盤に急いでやるタイプでしたが、じゃあ人生もそうなる可能性があります。
きっとおじいさんになって「ああ若い内にあれもやっておきたかったの~」とか言い始めるタイプです。
じゃあその「夏休み」を一日と仮定してみよう。
そしたらもっと一日を大事にできそうです。
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さて、じゃあ具体的に何をしたら一日に「十分」を感じられるだろうか?と言ったら、それは人それぞれ違うでしょう。
遊ぶことでしょうか、運動することでしょうか、勉強することでしょうか、仕事をすることでしょうか。
それは僕にはわからないことだけれど、でももしそれが何かしら自分の成長を見込めるものだったとするならば、きっと今日よりも明日の自分の方が優れていることになります。
明日よりも明後日が、明後日より明々後日が。
そうやって十分な一日を繰り返すとどうなるかというと、僕は「人生」というトータルで見たときももしかしたら「十分」を感じられるのかもしれないなと思いました。
「人生に十分を感じるには?」という問い掛けだとスケールが大き過ぎてイメージが湧かないけれど、「一日に十分を感じるには?」だったらその日その日で何か思い付くだろうし、「一日に十分を感じ続ければきっと人生も十分である」ということも一応期待を持てます。
つまるところ「人生何をするか」じゃなくて「今日何をするか」で、問い掛けとしては十分なのかもしれません。
もちろんある程度先々を見ることが前提ではありますが、その上でまずは今日という一日を十分にしたらいいのかもしれません、という僕の今のところの考えです。
どこかでも書きましたが、一日一歩なら百日で百歩です。
十分を百日繰り返したら、ひとまず百日は十分です。
じゃあ1年後ならどうなっているだろうか。
365日の十分が重なったら、もうそれってきっと凄いことです。
そういう感じで年を取っていきたいものですね。
ノシ