人生の成功と失敗について思うこと

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昨日、「芸術には楽しみ方がある」というようなことを書きました。

たとえそれが失敗に見えるものだったとしても、作り手があえてそう見せているのであればそれは失敗ではないし、仮に単純な失敗だったとしてもそこに意味を見出せるのであれば、それは結果的には失敗とは言えないのかもしれません。

作り手本人が「失敗である」と認めたとしても、受け取った人が「いやいや、これはこれで味わい深いよ」と思えたのなら、それはもう失敗ではない、のかな?

 

そして、それは映画であろうが写真であろうが音楽であろうが絵であろうが小説であろうがなんでもそうである、というようなことを書きました。

 

そのことを自分なりにまた考えていたのですが、話を大きくすれば人生もまた同じであろうか、と思いました。

誰かの目からは失敗に見える人生だったとしても、本人が良しとして選んだ道で結果に不満がないのであれば、それは周りがとやかく言うことではない。

本人が「これでいいのだ」と言うのであれば、彼にとってはそれでいいのである。

 

反対に、本人としては「なんであんなことしちゃったんだろう」「どうしてこんな道を選んでしまったんだろう」と後悔しているとしても、周りから見たら順風満帆、それでいいじゃないか、と思うこともあるでしょう。

もちろん本人が納得していないのであれば、本人にとってはいつまでも失敗的人生に思えるのかもしれませんが、周りが「良い」と思ってくれてる事実も忘れたくないところです。

自分としては「×」でも、それを「○」としてくれる人がいる。

そんな風に考えると楽になることもあるのかもしれませんね。

 

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それでも納得ができないのであれば、人生に完結はございませんから、今からでもいつからでも現状を変える努力というのはできるものでしょう。

映画は完成されたものを提供しますから、結末は変えられないけれども、人生は死ぬまで終わらないわけですから、全てが伏線であったかのようにデザインすることができる。

より良い方へ、より良い方へと向かうその様は、生きてても楽しいし、見てても楽しいのではないでしょうか。

 

綺麗に撮れる写真をあえてブレさせるように、人生の一般的ないわゆる「幸せ」と言われる形をブレさせても時にはいいと思うのです。

自分が思う「成功」「良し」「○」が明確にあるのなら、周りからの多少のブレ(ズレ)は無視していい。

 

じゃあ自分なりのその成功たるものを明確にするにはどうしたらいいかというのは、世界を学ぶことが一番であろうと思います。

前にもどこかで「知の世界地図を作る」みたいなことを書きましたが、自分なりの地図ならぬ知図を少しずつ広げていく。

縦にも横にも奥にも広く、世界を認識できるようになって初めて、自分が思う「これでいいのだ」が見えてくるのかなーと。

 

あとはそこに向かって歩くだけ。

 

言うは易く行うは難し、ってなもんですが、本来元来の勉学の目的はそういうことなんじゃないかと思います。

そうしたらいよいよなんかもう、全部が楽しい。

 

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