実話系映画を観て映画的な人生ってなんだろうと考える

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もう結構前に、友達と蔦谷書店に行ったときにオススメされて『奇跡の2000マイル』という映画を観ました。

1977年に実際にあった話で、とある女性がオーストラリアの砂漠を3000キロ(2000マイル)、ラクダに乗って旅するという映画です。

 

 

実は最近気付いていて、この映画でより確信したことがあります。

何かと言うと

「僕は実話に基づく映画が得意じゃない」

ということです。

 

どうしてかというと、僕はもう良くも悪くも映画らしい映画の面白さにすっかり侵されていて、物語に何か意味のある展開や大きな結末を求めてしまっているのです。

でも実話が基の映画って、誰かが実際にそうした出来事が映像化されているわけであって、その行動に意味はなかったりするわけじゃないですか。

例えば『アメリカン・スナイパー』という映画でも、何か意味ありげに主人公がいろいろなことを言いますが、それは実在する人物が実際に発した言葉をただセリフとして言っているだけであって、大きく物語に影響してこなかったりするわけです(だからこそメッセージ性があるんだけれど)。

 

でも映画として作られた映画は、多くのセリフに意味があります。

それが伏線であったり、その人物の心理描写として重要な役割があったりします。

そういった意味性みたいなものが、実話系にはあまりないように感じられるのです。

 

だからなんかこう、淡々と物語が紡がれていく感じと言いますか、何か裏を読もうとしても全然そういうのがなかったりですとか、そのフワフワした感じが実はあまり得意ではないな、と感じたわけです。

かねてより言ってるように、映画には観方がありますから、実話系なら実話系なりの楽しみ方がきっとあるのでしょうから、もう少しその辺りも鍛えていきたいなーなんて思いました。

 

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さて、それと同時に、自分の人生というものについても考えてみました。

というのも、僕が「面白い」と感じる映画は当然面白いように作られた物語であって、実話が基の映画とは当然意味が違います。

だけれども、僕がリアルに生きてるこの人生は、もちろん実話です。

ともすると、あれれ?実話系が楽しめない=自分の人生も楽しめない、ということにならないか?と思ったのです。

何も伏線もなく、意味のない言葉を発し、結末がどうなるかもわからない、どの方向に向かってるかもわからない物語。

なるほど、何も考えず惰性的に生きていると、人生というのは、苦手とする実話系映画以上に何も残らない物語で終わるんだな、ということに気が付いたのです。

 

いや、「実話系以上に」という表現は不適切ですね。

実話系映画には、映画化そのものにはちゃんと意味があるし、得意ではないというだけで、決して何も感じないわけではない。

 

そういうものとは違って、僕のなんてことはない人生は、このままだと映画にすらならない、物語にすらならない、誰の記憶にも残らないまま終わるんだな、ということに気が付いたのです。

そんなようなことをRADWIMPSの野田さんも歌っていたように思いますが、僕はそれを映画に絡めて考えてみました。

 

じゃあ映画的な人生ってなんだろうか。

映画じゃなくてもいい、漫画的でもいいし、小説的でもいい。

何かの物語の登場人物に強い憧れがあるとしても、その生き様を真似できるだろうか。

あの主人公はあんなに頑張っていて、あんなに成長することができたのだから、じゃあ自分も頑張らなくてはいけないな、くらいには思いたい。

思ってそして、行動したい。

そうしたら少し俺物語としての主人公気分になれるんじゃないかな。

 

そうしたら、なんだろう。

何かになれるんじゃないのかな。

 

何かになれたら、誰かにとっての物語になるのかな。

物語的な人生になるのかな。

 

キュウソネコカミの『わかってんだよ』を思い出す。

 

そう、わかってんだよなー。

 


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